5話 正しさ
「今日は君がやりなさい」
店主はそれだけ言って、奥の部屋に引っ込んだ。理由は言わなかった。どうせ理由を聞いても嘘しかつかないだろう。
キョウはカウンターの中央に立った。いつもは端にいる。中央は店主の場所だ。
契約は「店主の商売に口出しをしないこと」。自分が接客するなら、それは口出しではない。そう考えた。
客は二十代くらいの女性だった。顔色が悪い。目の下に影がある。
「痛みを預かってもらえるって」
「どこの痛みですか」
「頭。もう三年」
女性はこめかみを押さえた。毎日、と言った。起きたときも仕事中も痛い。薬を飲んでも効かない。病院は一度行って、異常なしと言われたらしい。だから治らないものだと思っている。
「薬は、どのくらい飲んでいますか」
「毎日。朝と昼と、夜も」
「市販の鎮痛剤ですか」
「うん。効かないから、量を増やして」
キョウは帳簿を開かなかった。
鎮痛剤を毎日飲み続けると、薬そのものが頭痛を起こす。薬物乱用頭痛。痛いから飲む、飲むから痛い。異常なしと言った医者は、薬の量を聞かなかったのだろう。
治る。この人の痛みは、治る。
「預ける前に、一つだけ話させてください」
女性は顔を上げた。
「痛覚を預けると、頭痛だけが消えるわけではありません。全部消えます。火傷も、骨折も、盲腸も。痛みは身体の警報です。それが鳴らなくなる」
「でも、もう限界で」
「分かります。だから言います。あなたの頭痛は、たぶん薬の飲みすぎが原因です。
鎮痛剤を連日飲むと、薬が頭痛を作ります。頭痛外来か神経内科に行って、薬の量を正直に言ってください。治ります。ここで痛覚を手放すより、ずっと安くて、ずっと安全です」
女性はしばらく黙っていた。
「……質屋の人が、そういうこと言う?」
「それに、なんでそんな知識が?」
「言いません。普通は」
「ただ試してからでも遅くはないはずです」
女性は立ち上がった。帳簿には触れなかった。戸のところで一度振り返って、何か言いかけて、そのまま出ていった。
病院に行くかどうかは分からない。分からないが、今日は預けなかった。
「一人逃がしたね」
店主は奥から出てきた。怒っていなかった。笑っていた。
「治る病気でした」
「知ってるよ。だから君に任せたんだ」
キョウは店主を見た。
「君がどうするか見たかった。見られて満足だよ」
店主はカウンターの中央に立った。キョウは端に戻った。
「さて。うちは慈善事業じゃない。客に病院を勧める店員は要らない。だから選んでもらう」
店主は棚の一番奥を指さした。箱が並んでいる。キョウはどれが自分のものかを知っている。毎日数えている。一つも減っていない。
「今ここで辞めて、何も取り戻さないまま出ていくか。それとも、うちの店員として働くか。後者なら、客は二度と返さないこと」
「辞めたら、あれは…」
「うちの物のままだよ。流れた物だからね。君がここで働いてるのは、流れた物を買い戻すためだろ?その代わりに、全部戻るまで戸の外には出ない。そういう約束だったはずだ」
キョウは自分の手を見た。
「それと、もう一つ」
店主は楽しそうだった。
「君も知っているように、私が君から預かったのは七つ。右目、左目、右腕、左腕、右脚、左脚、そして大切な記憶」
「働いてもらうために、記憶以外は一時的に戻している。ただし戻しているのは動きだけだ。感覚は箱の中にある。ここから出ていくなら、動きも当然返してもらう」
キョウは何も言わなかった。
知っていた。全部知っていた。ただ、店主の口から並べられると自分が何を信じてこの店に立っていたのか、分からなくなった。
「さっきの客は、病院に行くかもしれない。行かないかもしれない。どっちにしても君には分からない。君はここから出られないんだから」
「……はい」
「正しいことをしたいなら、先に自分の物を取り戻しなさい。外に出てから、好きなだけ病院を勧めればいい。ただし、ここで良い行いをしても、君の物は一つも戻らない」
「いっそ、その医学の知識も預けるかい?」
店主は帳簿をキョウの前に置いた。いつも客に置くように。
「で、どうする?」
キョウは箱を見た。それから、自分の手を見た。
ここを出て、何も取り戻せないまま、動かない手足で生きる。それは、何も取り戻さないと決めることだ。自分が何の記憶を失ったのかも分からないまま。
「働きます」
「医学の知識は、そのままで」
「そうかい」
店主は帳簿を引っ込めた。満足した顔だった。最初からその答えを知っていた顔だった。
「じゃあ、次の客からは返さないこと。分かっていても、言わないこと。君はそれが得意だっただろう」
「これからは君に接客してもらうことも増えるからね」
キョウは席に座った。帳簿を開いてペンを持った。動く。今は。




