52話 本当の再会
次の日の朝、キョウは開店前の店で帳簿を閉じた。
カウンターの向こうには店主がいて、丸椅子にはレイが座っている。レイは昨日、沙耶を病院まで送り届けたあと、そのまま店には戻らなかった。今朝早くに戸を開けて入ってきて、何も言わずにいつもの場所に腰を下ろしたきり、ずっと黙っている。
「決めたんだね」
店主が言った。
「はい」
キョウは頷いた。
一晩、ほとんど眠れなかった。奥のベッドで天井を見ながら、昨日聞いたことを何度も頭の中で並べ直した。妹がいること。事故のこと。店主がしたこと。自分が全部を忘れたいと頼んだこと。
思い出せば、きっと苦しい。
店主はそう言っていたし、自分でもそう思う。わざわざ忘れることを選んだくらいなのだから、楽なものが入っているはずがない。
それでも、あの車椅子の車輪を思い出すたびに、ここに残る理由が一つずつ消えていった。
「買い戻します」
店主は何も言わずに立ち上がり、棚の一番奥から七つの箱を順番に下ろしてカウンターに並べた。
右目。左目。右腕。左腕。右脚。左脚。記憶。
毎日拭いてきた箱だ。
店主が紙に金額を書いて、キョウの前に向ける。キョウにはそれが高いのか安いのかも分からなかったが、店主が帳簿を指でなぞって「足りてるよ」と言ったので、それで十分だった。
「最後に一つだけ」
店主が箱の上に手を置く。
「外に出たら、全部戻る。目も手足も、感覚も。それと記憶も、一度に」
「はい」
「たぶん、立っていられないくらいにはなるよ」
「分かってます」
店主は少しだけ笑った。
それから、七つの箱に順番に手を置いていく。一つ置くたびに箱が消え、最後に記憶の箱が消えると、カウンターの上には何も残らなかった。
レイが丸椅子の上で、膝を抱える手に力を入れたのが見えた。
キョウは戸の前まで歩いた。
借り物の脚で歩くのも、これが最後になる。
振り返ると、店主はいつもの場所に立っていて、レイはこちらを見ていた。何か言いかけたように唇が動いたが、言葉にはならない。
「いってきます」
キョウが言うと、店主が答えた。
「いってらっしゃい」
戸を開ける。
春の朝の光が、路地に満ちていた。
キョウは敷居をまたいだ。
最初に来たのは、風だった。
頬に、首筋に、手の甲に。冷たくて柔らかいものが触れて、通り過ぎていく。手のひらを開くと、その感触が指の間を抜けていくのが分かった。
感覚がある。
足の裏に、石畳の硬さがある。日の当たったところだけが少し温かい。
目の前の路地の色が、急に濃くなったように見えた。借りていた目で見ていたのと同じ景色のはずなのに、壁の染みも、軒の影も、何もかもがはっきりと自分のものとして目に入ってくる。
その次に、記憶が来た。
雨の夜の高速道路。フロントガラスを流れる水。助手席で眠そうに窓にもたれていた沙耶。後ろの席で、帰ったら何を食べたいかと聞いていた父の声。
正面から光が迫ってきて、自分の手がハンドルを右に切った。考えるより先に、身体が自分を守るほうへ動いた。
ぶつかる音。
ガラスの割れる音。
助手席の方を見たとき、沙耶はもう、こちらを見ていなかった。
キョウは路地の壁に手をついた。膝から力が抜けて、そのまま地面に座り込む。
記憶は止まらなかった。
病院の白い廊下。医者の口から出た、遷延性意識障害という言葉。寝たきりになった父の天井を見る目。大学に退学届を出した日。看護助手として働きながら、休憩のたびに開いた医学書。付箋だらけになっていくページ。
毎日、沙耶の手を握って言った。
起きてよ。
返事のない声に、何百回も。
請求書の束。借金の電話。保険の利かない治療を見つけた夜の、わずかな希望。それでも何も変わらない沙耶の顔。
雨の降る病院の前のベンチ。
隣に座った見知らぬ女の人が、静かに言った。この店のこと、知りたい?
あの人の顔。
レイの顔だった。
カウンターの前で、両腕も両脚も迷わずに差し出したこと。自分だけが歩けることに耐えられなかったこと。
そして最後に、店主に聞いた。
全部、忘れられますか。
キョウは地面に座ったまま、両手で顔を覆った。
指の間から、涙がこぼれる。頬を伝うその温かさが、ちゃんと分かる。
どれくらいそうしていたのか分からない。
路地の向こうで、誰かの足音が通り過ぎていった。
キョウは顔を上げて、自分の手を見た。指を開いて、閉じる。動く。触れる。感じる。
それから、壁に手をついて立ち上がった。
脚が震えている。それでも、自分の脚だった。
駅の向こうの病院までは、歩いて二十分かかる。
五か月前の雨の夜、レイが一人で歩いて戻った道を、キョウは自分の足で歩き始めた。
病室の戸は、少しだけ開いていた。
中から話し声が聞こえる。
キョウは戸の前で一度だけ立ち止まり、息を整えてから、ノックをした。
「どうぞ」
聞き覚えのある、かすれた声。
戸を開ける。
窓際のベッドに、父がいた。もう一つのベッドの横には車椅子があって、その上に沙耶が座っていた。窓の外の桜を見ていたのか、顔をこちらに向けるのが少しだけ遅れる。
目が合った。
沙耶の顔が、ゆっくりと変わっていく。
「……お兄ちゃん」
キョウは戸口に立ったまま、言葉を探した。
昨日、店で見たときと同じ顔だ。けれど昨日とは、何もかもが違って見える。
小さいころ、転んで泣いていた顔。中学の制服を見せに来たときの得意そうな顔。大学に受かった日に、電話の向こうで叫んでいた声。事故の夜、助手席で窓にもたれていた横顔。
三年間、返事をしなかった顔。
「沙耶」
名前を呼んだ瞬間、沙耶の目から涙があふれた。
「覚えてる?」
「全部、思い出した」
沙耶が車椅子の車輪に手をかけて、こちらへ動こうとする。キョウはその前に駆け寄って、膝をついた。
沙耶の腕が、キョウの首に回る。
細い腕だった。三年間寝たきりだったとは思えないくらい、力いっぱい抱きついてくる。
「起きたよ」
耳元で、沙耶が言った。
「お兄ちゃんがずっと言ってたから、起きたよ」
キョウは沙耶の背中に腕を回した。
震えているのが、自分の腕なのか沙耶の身体なのか分からない。
「ごめん」
それしか言えなかった。
「何で謝るの」
「ずっと、いなくて」
「いたよ」
沙耶はキョウの肩に顔を埋めたまま言った。
「いなくなってからも、毎月いたもん。お兄ちゃんのお金で、ここまで来れたんだよ」
キョウは何も言えずに、ただ沙耶を抱きしめていた。
しばらくして顔を上げると、ベッドの上の父がこちらを見ていた。
首から下はほとんど動かない。最後に会ったときより痩せていて、髪に白いものが増えている。
「父さん」
父は何も言わなかった。
ただ、天井ではなく、まっすぐキョウを見ていた。
キョウは沙耶の車椅子を押して、父のベッドの横まで動かした。それから自分も、ベッドの脇の椅子に座る。
「無事、だったんだな」
父の声はかすれていた。
「うん」
「どこにいた」
「駅の裏の質屋」
父は目を閉じて、長い息を吐いた。
「知ってる」
キョウは父の顔を見た。
「団体の人間が、あの店を調べてた。そこにお前がいると聞いた」
父の目が開く。
「何を、売った」
キョウは少しだけ黙ってから、答えた。
「目と、手足と、記憶。全部、さっき買い戻した」
沙耶が息を呑む。昨日、店主から聞いていたはずなのに、キョウの口から聞くとまた違うのだろう。
父は何も言わなかった。
目の端が、ゆっくりと濡れていく。
「話さなきゃいけないことがある」
キョウは二人の顔を見た。
昨日、店主から聞いたことを、ひとつずつ話した。
逆走してきた車の運転手が、事故の少し前にあの店に来ていたこと。店主になったばかりの店主が嘘をついて、その人から常識を預かったこと。それがなくなればどうなるか分かっていて、そうしたこと。
それから店主は嘘をつくのをやめたこと。
キョウの稼ぎを、キョウの名前で送っていたのが店主だったこと。
そして、店主がずっと待っていたもののこと。
「店には、腕や脚も入ってくる。動かなくなった身体を、動かせるようにするものが」
キョウは沙耶を見て、それから父を見た。
「店主は、二人の分が揃ったら渡すつもりだったって。父さんの分も、いつか手に入ったら渡すって言ってた」
病室が静かになった。
窓の外で、桜の花びらが一枚、風に流されていく。
「どうする」
キョウは聞いた。
「受け取れば、たぶんすぐに動けるようになる」
最初に口を開いたのは、沙耶だった。
「私は、いい」
キョウは沙耶を見た。
沙耶は膝の上の自分の手を見下ろしていた。少し前まで、スプーンを持つのもやっとだったという手。
「三年間、何もできなかったけど、今は自分で少しずつ動けるようになってるの。先生も驚いてるくらい」
沙耶は顔を上げて、少しだけ笑った。
「お兄ちゃんが払ってくれたお金で、ここまで来たんだよ。だったら、最後まで自分の脚で歩けるようになりたい」
「時間、かかるよ」
「かかってもいい。お兄ちゃん、もうどこにも行かないでしょ」
キョウは何も言えなかった。
ただ、小さく頷いた。
それから、父の方を見る。
父は天井ではなく、窓の外を見ていた。
「俺も、いらない」
かすれた声だった。
「父さん」
「あの店に人を送ってたのは、俺だ」
父の目が、ゆっくりとキョウに向く。
「娘の治療費のためだと言って、困ってる人を集めた。救いだと言って、あの店で何かを手放すよう勧めた。腕を売った人間もいたかもしれない。記憶を売った人間も」
父は少しだけ目を閉じた。
「その店の腕で、俺だけが動けるようになるわけにはいかない」
キョウは何も言い返せなかった。
父は団体のことを、もう全部終わらせたのだという。白いシャツの男が最後に店に来たのも、父がそう決めたからだった。
「その代わり」
父が言った。
「一つだけ、ずっと言えなかったことがある」
キョウは父を見た。
父の右手が、毛布の上でかすかに動いた。指が一本ずつ曲がり、ゆっくりと手のひらが持ち上がる。数センチ浮いたところで震えて、止まる。
キョウはその手を取った。
骨ばっていて、少し冷たい。それでも、握り返そうとする力がある。
「事故は、お前のせいじゃない」
キョウの呼吸が止まった。
「お前がハンドルを切ったのは、誰だってそうするからだ。逆走してきたのは向こうだ。お前が悪かったことなんて、一つもない」
父の声が震えた。
「それをずっと言いたかった。言えないまま、お前がいなくなった」
キョウの手の中で、父の指が少しだけ強くなる。
「……お前のせいじゃない」
キョウは父の手を握ったまま、俯いた。
約二年半、自分を責め続けた。助手席にいたのが沙耶だったことも、自分だけが軽い怪我で済んだことも、全部自分のせいだと思っていた。自分の手が勝手に自分を守ったことが、何より許せなかった。
だから全部、忘れたかった。
「お兄ちゃん」
沙耶の手が、キョウの背中に触れる。
「私も、そう思ってるよ。お兄ちゃんのせいじゃない」
キョウは顔を上げられなかった。
涙が、父の手の甲に落ちる。
父はそれを見て、少しだけ笑ったようだった。
それから、キョウの手の中から、自分の右手をゆっくりと引き抜いた。震える指が、時間をかけて自分の頬まで持ち上がっていく。
途中で何度も止まりそうになりながら、指先が目の端に届いた。
父は、自分の手で涙を拭った。
「リハビリ、少しは効いてるだろう」
父が言った。
キョウは泣きながら、笑ってしまった。
沙耶も笑っていた。
窓の外では、春の風が桜の枝を揺らしている。
三人とも、しばらく何も言わなかった。
言わなくても、もう分かっていた。




