最終話 救済の質屋
窓の外の桜が、少しずつ傾いた日差しに染まり始めていた。
父のベッドの横で、キョウはしばらく何も言わずに座っていた。沙耶は車椅子の上でキョウの袖をつまんだまま離さず、父は自分の涙を拭った右手を、毛布の上で休ませている。
「二人に、もう一つ話しておきたいことがある」
キョウが言うと、二人がこちらを見た。
「しばらく、あの店で働こうと思ってる」
沙耶が目を丸くする。
「え、でも、もう出られるんでしょ。全部買い戻したって」
「出られるよ。ここにも、毎日来られる」
キョウは窓の外に目をやった。
「でも、入院費はまだかかるし、沙耶のリハビリもこれから長い。父さんの分もある。退院したあとの暮らしだって考えないといけない」
「お兄ちゃん、また無理して」
「無理じゃないよ」
キョウは沙耶の方へ向き直った。
「あそこなら、ちゃんと稼げる。それに、今度は自分の意思で行くんだ。何かを預けに行くわけじゃない」
父が黙ってキョウを見ていた。
「あの店主の下でか」
かすれた声だった。
さっき、店主がしたことを全部話したばかりだ。父がそう聞くのも無理はなかった。
「うん」
キョウは頷いた。
「店主のしたことは、忘れない。忘れちゃいけないと思う。でも、あの人がそのあと何をしてきたのかも、見てきたから」
嘘をつかなくなった店主。何がなくなるのかを必ず客に話す店主。キョウの名前で、毎月お金を送り続けていた店主。
「それに、あの店に来る人たちのことも、もう少し見ていたい」
父はしばらく何も言わなかった。
それから、小さく息を吐いた。
「……お前が決めたなら、それでいい」
沙耶がキョウの袖を引っ張る。
「じゃあ、毎日来てね」
「毎日は無理かも」
「来て」
「……なるべく」
沙耶は不満そうに頬を膨らませてから、笑った。
キョウは立ち上がり、沙耶の頭に軽く手を置いた。髪の柔らかさが、指先にちゃんと伝わってくる。
「また来る」
「絶対だよ」
「絶対」
父の方を見ると、父はもう天井ではなく、窓の外の桜を見ていた。
「父さん、また」
「ああ」
それだけだった。それだけで、十分だった。
病室の戸を閉めて廊下に出ると、少し先の長椅子に誰かが座っていた。
膝を抱えて、スマートフォンを眺めている。
画面は点いていなかった。
「レイさん」
レイが顔を上げる。
一瞬だけ、何か言葉を探すような顔をして、それからいつもの調子で言った。
「たまたま通りかかったの」
「病院の五階を、ですか」
「たまたまが続く日もあるって言ったでしょ」
キョウは少しだけ笑って、レイの前に立った。
レイは長椅子から立ち上がろうとして、やめた。キョウの顔を見上げたまま、指先でスマートフォンの縁をなぞっている。
「……思い出したんでしょ」
「全部」
「そっか」
レイは目をそらした。
「じゃあ、分かったよね。連れてきたの、私だって」
「分かりました」
「雨の中で、あんな店のこと教えて。全部手放すの、隣で黙って見てた」
レイの声が、少しだけ小さくなる。
キョウは長椅子の隣に腰を下ろした。
「ありがとうございました」
レイの指が止まった。
「連れてきてくれて」
レイはしばらく何も言わなかった。
スマートフォンの暗い画面を見つめたまま、唇を少しだけ動かして、それから閉じる。
「……何それ」
ようやく出てきた声は、いつもより少しだけ低かった。
「お礼を言われるようなこと、してないんだけど」
「してますよ」
「してない」
「僕がそう思ってるので」
レイは顔をそらしたまま、ふっと息を吐いた。笑ったのかもしれない。
「帰ろっか」
「はい」
二人で病院を出ると、外はもう夕方の色になっていた。
駅の向こうから、店のある路地の方へ歩いていく。キョウは自分の足で歩くたびに、地面の硬さや、風の冷たさや、遠くで鳴る踏切の音を一つずつ確かめるように感じていた。
「駅前の木、緑になってますね」
「秋は黄色かったよ」
「レイさん、前に教えてくれましたよね」
「覚えてたんだ」
「店の中のことは、忘れなかったので」
ケーキ屋の看板が新しい店のものに変わっていて、その隣には知らないパン屋ができていた。半年近く店から出なかった間に、外は少しずつ変わっていたらしい。
信号を待ちながら、キョウはレイの横顔を見た。
「レイさん」
「何」
「結局、何が欲しかったんですか」
レイは信号の赤い光を見たまま、少しだけ黙った。
前に聞いたときは、教えません、と言われた。この店にあるのは全部ちょっと違う、と。
信号が青に変わる。
レイは歩き出しながら、小さく言った。
「……もう要らないかな」
キョウはレイを見た。
レイは前を向いたまま、いつもと同じ顔をしていた。何を考えているのか分からない、少しだけ笑っているような顔。
「教えてはくれないんですね」
「教えません」
「やっぱり」
「でも、もう要らないのは本当」
それ以上、レイは何も言わなかった。
キョウも聞かなかった。
並んで歩く二人の影が、夕日に長く伸びていた。
路地に入ると、見慣れた戸が見えてくる。
外から見るのは、五か月ぶりだった。
キョウは戸に手をかけて、少しだけ立ち止まった。
この戸を内側から見ていた日々のことを、全部覚えている。客が来るたびに顔を上げて、出ていく背中を見送って、外のことを想像していた。
戸を開ける。
「ただいま」
カウンターの奥で帳簿を広げていた店主が、顔を上げた。
「おかえり」
いつもと同じ声だった。
レイが先に入って、いつもの丸椅子に腰を下ろす。キョウはカウンターの前に立った。
借り物ではない自分の手を、カウンターの上に置く。木の手触りが、少しざらついていた。
「話してきました」
「うん」
「沙耶は、自分で歩けるようになりたいから、腕も脚もいらないって」
店主は何も言わずに聞いていた。
「父さんも、いらないって。あの店に人を送ってたのは自分だから、その店の腕で自分だけ動けるようになるわけにはいかないって」
店主の指が、帳簿の上で一度だけ止まった。
「それと」
キョウは店主をまっすぐ見た。
「僕、まだここで働きます」
レイが丸椅子の上で、少しだけ顔を上げた。
「入院費もかかるし、沙耶のリハビリもこれからだし。父さんのことも、退院したあとのことも、まだお金がいるので」
キョウは少しだけ間を置いた。
「今度は、預けたものを返すためじゃなくて。自分で決めて、ここで働きたいです」
店主はしばらくキョウを見ていた。
いつもの笑顔とは少し違う、何も貼りつけていない顔で。
それから、帳簿を閉じた。
「そっか」
店主はそれだけ言って、棚の一番奥に目をやった。七つの箱が並んでいた場所は、もう空いている。




