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51話 店主の罪

店主はカウンターの椅子に腰を下ろし、車椅子の女性とキョウを順番に見た。


レイはまだ立ったままで、床のスマートフォンを拾おうともしない。


「どこから話そうかな」


店主は少しだけ考えるように天井を見て、それからキョウの方へ向き直った。


「キョウ。君がこの店に来たときのことは、覚えてないよね」


「覚えてないです」


「そうだよね。そういう契約だから」


店主は車椅子の女性に目を移す。


「この子は、君の妹だよ」


キョウは女性を見た。


女性は膝の上で両手を握りしめて、まっすぐこちらを見返している。


妹。


その言葉を頭の中で繰り返しても、何も起きない。顔を見ても、声を聞いても、知らない人のままだ。それなのに胸の奥で鳴り続けている音だけが、さっきから少しも止まらない。


「三年前に事故があって、この子はずっと目を覚まさなかった。君はその治療費を払うために、ここに来たんだ」


店主はキョウの手に目をやった。


「両目、両腕、両脚。それと記憶。全部ここに預けて、そのお金を病院に届けてもらった」


女性が息を呑む音がした。


「……全部?」


かすれた声だった。


「私のために、全部?」


店主は頷いた。


「そのままだと外では生きていけないから、この店で働いてもらうことにした。目と手足は私が貸してる。全部買い戻すまで、ここからは出られない。それが契約」


女性の目から、涙がこぼれた。


拭おうともせずに、キョウを見ている。


キョウは自分の手を見下ろした。感覚のない、借り物の手。それが今、少しだけ震えている理由が、ようやく分かった気がした。


「記憶は」


キョウは言った。


「僕が、忘れたいって言ったんですか」


「言ったよ。ここに来るまでのことを全部。何も教えないでくれって」


「どうして」


「それは、取り戻したら分かるよ」


店主の声は静かだった。


女性が車椅子の上で身を乗り出す。


「お兄ちゃん」


キョウは顔を上げた。


「私、覚えてないの。事故のことも、そのあとのことも。でも、お兄ちゃんの声だけは聞こえてた。起きてよって、毎日」


女性は涙で濡れた頬のまま、少しだけ笑った。


「だから、起きたんだよ」


キョウは何も言えなかった。


返す言葉が、自分の中のどこを探しても見つからない。


「レイ」


店主が言った。


レイがびくりと肩を揺らす。


「この子を病院まで送ってくれる? 一人で来たみたいだし、帰りは坂があるから」


レイは店主を見て、それから女性を見た。


「……うん」


ようやく床のスマートフォンを拾い上げ、レイは車椅子の後ろに回った。


女性は振り返らずに、キョウを見たまま言った。


「また来るね」


「……はい」


「待ってるからね。お父さんも」


レイが車椅子を押して、戸を開ける。敷居の段差を越えるとき、レイは一度だけキョウを振り返った。何か言いたそうな顔をして、けれど何も言わずに、女性と一緒に路地へ出ていく。


戸が閉まった。


店の中に、キョウと店主だけが残る。


しばらく、どちらも何も言わなかった。


格子越しの光が少しずつ傾いて、床の上の影が伸びていく。


「まだ、話してないことがある」


店主が言った。


キョウは店主を見た。


店主はいつもの笑顔ではなかった。かといって、怒っているわけでも悲しんでいるわけでもない。ただ、キョウが今まで見たことのない、何も貼りつけていない顔をしていた。


「三年前の事故はね、逆走してきた車が原因だった」


新聞の記事を思い出す。逆走した車の運転手は死亡、と書いてあった。


「その運転手は、事故の少し前に、この店に来てる」


キョウの指が、帳簿の上で止まった。


「店主になったばかりの頃でね。何でもできる気になってた」


店主は棚の方を見た。


「あの人はお金に困ってて、ほんの小さなものを売りに来た。でも私は嘘をついて、本人が思ってたよりずっと大事なものを黙って預かった」


「……何を」


「常識」


店主は短く言った。


「高速道路を逆に走っちゃいけない。赤信号では止まる。そういう、誰でも当たり前に分かってることが、分からなくなる。それがどういうことになるか、私は分かってた。分かってて、面白半分で預かった」


キョウは何も言えなかった。


言葉が出てこないのではない。どんな言葉を出せばいいのか、分からなかった。


自分の家族を壊した事故。その原因が、今自分が働いているこの店にあった。


記憶があれば、怒ったのかもしれない。泣いたのかもしれない。


けれど今のキョウには、それが自分の話だという実感すらなかった。知らない誰かの、ひどい出来事の話を聞いているようだった。


それでも、胸の奥の音は止まらない。


「それから、嘘はつかないことにしたんだよ」


店主は静かに言った。


「言わないことはあるけどね。性格はそんなに変わらなかった。でも、嘘で何かを取るのだけは、もうしないって決めた」


キョウは、これまで店に来た客たちのことを思い出した。

借金の記憶を預けた男にも、痛みを預けた男にも、店主は大事なことを言わなかった。意地悪だと思っていた。止めればいいのに、と何度も思った。


けれど思い返してみると、店主が口にしたことは、どれも嘘ではなかった。


店主は続けた。


「腕とか脚とか。この店にはそういうものも入ってくる。君の妹と父親の分が揃ったら、渡すつもりだった」


「棚の右腕も、ですか」


「そう。欲しい人が来たら売るって言ったけど、あれはずっと売らないつもりだった」


キョウは、腕を売って流した男のことを思い出した。欲しい人が来れば売れる、と店主は言っていた。それなのにずっと棚に残っていた。


「それと」


店主は帳簿の表紙に手を置いた。


「君が働いた分の一部を、君の名前で家族に送ってた。治療費が、最初の分だけじゃ足りなかったから」


「……僕の名前で」


「勝手にね」


店主は少しだけ笑った。いつもの笑顔に近かったが、どこか力がなかった。


「だから本当は、君はもっと早く全部取り戻せてたんだよ。送ってた分がなければ」


キョウは帳簿を見下ろした。


当分先。


何度聞いても、店主はそう答えた。それを疑ったことは、何度もあったはずなのに。


「何で、黙ってたんですか」


「君の家族が動けないうちに全部思い出したら、君はまた同じ顔に戻ると思ったから」


店主は戸の方を見た。


「だから、まだ出すわけにはいかなかった。全部揃ってから、と思ってたんだけどね」


小さく息を吐く。


「あの子、自分で来ちゃった」


参ったな、とさっき店主が言った意味が、ようやく分かった。


店が用意しようとしていたものより先に、妹は自分の力で、ここまで来たのだ。


キョウは長いこと黙っていた。


聞きたいことはたくさんあるはずなのに、何から聞けばいいのか分からない。


自分がどんな人間だったのか。何を背負っていたのか。なぜ全部を忘れたいと思ったのか。


その答えは全部、棚の一番奥にある七つの箱の中に入っている。


「僕、どうすればいいんですか」


店主はキョウを見た。


「それを決めるのは、私じゃないよ」


「でも」


「買い戻すなら、もう払える。今日でも、明日でも」


店主の声は、また静かになった。


「戻せば、全部思い出す。事故のことも、君が背負ってたものも全部。私がしたことも、たぶんもっとはっきり分かる」


それから、少しだけ付け足す。


「戻さなければ、ここでこのまま働けばいい。それも、悪くない暮らしだと思うよ」


キョウは棚の奥を見た。


七つの箱が、いつもと同じ場所に並んでいる。毎日拭いてきた箱だ。中に何が入っているのか知らないまま、ただの箱だと思って触ってきた。


さっきの女性の顔が浮かぶ。


起きたよ、と言った声。


また来るね、と言った声。


キョウには、まだ何も思い出せない。


外はもう、夕方の色に変わり始めていた。

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