50話 再会
春の午後の光が、戸の格子越しに床へ細長く伸びていた。
客の来ない時間で、キョウは帳簿の整理をしていて、隣の丸椅子ではレイがスマートフォンを眺めている。奥では店主が棚の箱を並べ直している音がして、いつもと何も変わらない昼下がりだった。
戸ががたりと鳴った。
開くかと思ったが、開かない。少し間を置いて、もう一度がたりと鳴り、戸が半分だけ横に滑る。
その隙間から見えたのは、車椅子の車輪だった。
敷居の段差に前輪が引っかかって、それ以上進めないでいる。戸の向こうで、誰かが小さく息を吐く音がした。
キョウは帳簿を置いてカウンターを出た。
「手伝います」
戸を大きく開けると、車椅子に乗った若い女性がいた。二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。春物の薄いカーディガンを羽織り、膝には毛布を掛けている。肩までの髪は短く切りそろえられていて、頬はまだ少し痩せていた。
キョウは敷居の内側から手を伸ばし、車椅子の前の部分を持ち上げた。外には出られないので、腕の届く範囲で、段差の上へ前輪を引き上げる。女性が自分で車輪を回し、後ろの車輪もどうにか敷居を越えた。
「すみません、ありがとうございます」
女性はそう言って、顔を上げた。
キョウと目が合う。
女性の手が、車輪の上で止まった。
キョウは戸を閉めて、カウンターの内側へ戻る。
「いらっしゃいませ。何かお預けですか」
女性は何も答えなかった。
ただ、じっとキョウの顔を見ている。瞬きもせずに、まるで何かを確かめるように。
客の中には、店に入ってすぐには用件を言えない人もいる。キョウはそういう客に慣れていたから、急かさずに待った。
「ゆっくりで大丈夫ですよ」
女性の唇が、少しだけ震えた。
そのとき、奥の戸が開いて店主が出てきた。
「いらっしゃい」
いつもの調子で言いかけて、店主の足が止まる。
店主は車椅子の女性を見ていた。笑顔のまま、けれどその笑顔が、いつもより一拍遅れて動かなくなる。
キョウは店主のそんな顔を初めて見た。
客が誰であっても、何を持ってきても、店主はいつも先に分かっているような顔をしている。驚いたところなんて、一度も見たことがない。
店主は小さく息を吐いた。
「……参ったな」
それだけ言って、片手で額を押さえる。
カタン、と音がした。
振り返ると、レイが丸椅子から立ち上がっていて、床にスマートフォンが落ちていた。レイはそれを拾おうともせずに、車椅子の女性を見つめている。
いつもなら、どんな客が来てもレイは座ったまま眺めている。面白そうに、少し離れたところから。
そのレイが、言葉を失ったように立ち尽くしていた。
キョウは三人の顔を順番に見た。
店主と、レイと、車椅子の女性。
自分だけが、何が起きているのか分からない。
「あの」
キョウが口を開くと、女性が先に声を出した。
「お兄ちゃん」
小さな声だった。
キョウは少しだけ首をかしげる。
女性の視線は、まっすぐ自分に向いていた。
「……え」
「お兄ちゃん、だよね」
女性は車椅子の上で身を乗り出した。膝の毛布が少しずり落ちる。
「起きたよ」
声が震えていた。
「ずっと、起きてよって言ってくれてたでしょ。だから、起きたよ」
キョウは何も言えなかった。
起きてよ。
その言葉を、どこかで聞いたことがある気がした。
いや、聞いたのではない。自分で言ったことがある。何度も、何度も。誰に向かってなのかは分からないのに、言葉の感触だけが喉の奥に残っている。
胸の奥で、小さな音が鳴った。
雨宿りの看護師の話を聞いたときと同じ音だ。新聞の記事を読んだときと同じ音。
けれど、それだけだった。
目の前の女性の顔を見ても、名前も、どこで会ったのかも、何一つ浮かんでこない。
「すみません」
キョウはようやく言った。
「人違いじゃ、ないですか」
女性の顔から、表情が抜け落ちた。
「……覚えてないの」
キョウは答えられなかった。
助けを求めるように、店主を見る。
店主は何も言わなかった。額に当てていた手を下ろして、キョウと女性の間を見ている。
レイを見る。
レイは唇を噛んで、床に落ちたスマートフォンを見下ろしていた。
二人とも、知っている。
キョウにはそれが分かった。この人が誰なのかも、なぜ自分をお兄ちゃんと呼ぶのかも、二人ともずっと前から知っていた。
「お兄ちゃん、私だよ」
女性の声が細くなる。
「分からない?」
キョウは帳簿の上に置いた自分の手を見た。感覚のない、借り物の手。
その手が、少しだけ震えていた。
なぜ震えているのか、キョウには分からなかった。
「……すみません」
もう一度、そう言うことしかできなかった。
店の中が静まり返る。
格子越しの光が、車椅子の車輪の上で揺れていた。
しばらくして、店主がゆっくりとカウンターの方へ歩いてきた。
いつもの笑顔は、もう戻っていた。
けれど、その声は、キョウが今まで聞いたことのないくらい静かだった。
「少し、話そうか」




