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49話 春

窓の外で、桜が咲き始めていた。


病院の中庭に一本だけある古い木で、去年の今ごろも、その前の年も同じように咲いていたはずなのに、私が知っているのは今年の桜だけだ。


ベッドの背を起こしてもらい、膝の上に毛布を掛けて、私はその木をずっと眺めていた。


目が覚めたのは、秋の終わりだったらしい。


らしい、というのは、自分ではよく覚えていないからだ。気づいたら白い天井があって、知らない看護師さんが毎朝カーテンを開けながら「おはよう」と声をかけてくれていた。返事をしようとしても声が出なくて、うん、と喉の奥で鳴らすのが精いっぱいだった。


あれから何か月も経って、今はこうして話せる。言葉が出てくるまでに少し時間はかかるけれど、言いたいことはちゃんと言える。


自分の手で、スプーンを持てる。


リハビリ室の手すりにつかまれば、三歩くらいなら歩ける。


三年も眠っていたのだと教えられたときは、冗談だと思った。鏡に映った自分の顔を見て、ようやく信じた。


「何見てるんだ」


声がして、私は窓から顔を戻した。


同じ部屋の、もう一つのベッド。お父さんがこちらを向いていた。


目が覚めてしばらくして、私の病室にお父さんのベッドが移されてきた。看護師さんたちが、そうしたほうがいいだろうと考えてくれたらしい。お父さんは首から下がほとんど動かないけれど、最近は右手の指が少しだけ曲がるようになって、本人よりリハビリの先生の方が喜んでいた。


「桜」


「ああ。今年は早いな」


お父さんも窓の方を見る。


「去年も咲いてた?」


「咲いてたよ。お前は見てなかったけどな」


「見てたかも」


「見てないよ。目、開いてるだけだった」


「ひどい」


私が笑うと、お父さんも少しだけ笑った。


こんなふうに話せるようになるまで、お父さんは三年間、一人でこの病院にいたのだという。私の分の治療費を払うために、ベッドの上から人を集めて、何か大きなことをしていたらしい。何をしていたのかは、まだちゃんと教えてもらっていない。


ただ、それはもうやめたのだと聞いた。


最近、お見舞いに来ていた人たちが来なくなった。いつも白いシャツを着ていた若い男の人が最後に一度だけ来て、お父さんと長いこと話していた。その人が帰ったあと、お父さんは一晩中天井を見ていた。


「お父さん」


「何だ」


「お兄ちゃんのこと、聞いてもいい?」


お父さんの顔が、少しだけ固くなった。


目が覚めてから、何度も聞いた。お兄ちゃんはどこにいるのか、どうして会いに来ないのか。そのたびにお父さんは、元気にしているとだけ言って、それ以上は話さなかった。


でも、私は覚えている。


眠っていた三年間のことは何も覚えていないのに、一つだけ、耳に残っている声がある。


起きてよ。


誰の声なのか、目が覚めたときにはすぐ分かった。小さいころから何度も聞いてきた声だったから。


「ずっと、聞こえてた気がするの。お兄ちゃんの声」


お父さんは何も言わなかった。


「起きてよって。毎日」


窓の外で、風が桜の枝を揺らしている。


「それなのに、私が起きたら、いなくなってた」


お父さんは長いこと黙っていた。


それから、天井を見たまま口を開いた。


「駅の裏に、質屋がある」


「質屋?」


「そこで働いてるらしい」


私はお父さんの横顔を見た。


「どうして、帰ってこないの」


「分からない。帰ってこられない事情があるのかもしれない」


お父さんの声は低くて、少しかすれていた。


「でも、生きてる。元気にしてるって聞いた」


「誰に?」


「お前の最初の治療費を、ここまで届けてくれた人だ」


お父さんは少しだけ目を閉じた。


「それから毎月、あいつの名前で振り込みが来てる。お前のリハビリも、この部屋も、全部そこから払ってる」


私は膝の上の毛布を握った。


自分の手が動くことも、こうして話せることも、窓の外の桜を見ていられることも。


全部、お兄ちゃんが。


「会いたい」


声に出したら、思ったよりはっきり言えた。


お父さんがゆっくりと目を開ける。


「私、会いに行く」


「まだ、そんなに歩けないだろう」


「車椅子なら行ける。自分で動かせるもん」


お父さんは何か言いかけて、やめた。


しばらく私の顔を見ていたけれど、やがて小さく息を吐いた。


「……そうだな」


それから、ほとんど聞こえないくらいの声で付け足した。


「俺は、行けないからな」


私は窓の外を見た。


桜の木の向こうに、駅へ続く道が見える。あの道の先のどこかに、お兄ちゃんがいる。


三年間、毎日起きてよと言い続けてくれた人に、今度は私が会いに行く番だ。


「お父さん」


「何だ」


「お兄ちゃんに、何か伝えることある?」


お父さんは答えなかった。


ただ、少しだけ曲がるようになった右手の指が、毛布の上でかすかに動くのが見えた。

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