48話 最後の報告
その男が戸を開けたのは、昼を少し過ぎたころだった。
二十代の後半くらいで、白いシャツの上に紺のコートを羽織っている。入ってきても店の中を見回すことはなく、まっすぐカウンターの前まで歩いてきた。
キョウはその顔を覚えている。
店主が出かけていた日に、何も預けず、何も買わず、店のことばかり聞いて帰った三人のうちの一人だ。最後に来て、店主がいなければ箱はただ置いてあるだけなのかと確かめるように聞いていった男。
男もキョウを見て、ほんの少しだけ目を止めた。
「店主さんは、いらっしゃいますか」
前に来たときとは違う、丁寧な口調だった。
キョウが奥に声をかけるより先に、店主が戸口から顔を出す。
「いるよ」
男は店主に向き直り、深く頭を下げた。
「今日は、客として来たわけではありません。伝えなければいけないことがあって」
「座る?」
「いえ、すぐに帰りますので」
男は立ったまま、背筋を伸ばした。
「私どもの団体では、今後、この店のことを人に教えることはやめます。献金のために、ここで何かを手放すよう勧めることも、もうしません」
店の中が静かになる。
キョウは帳簿に置いた手を止めた。少し前に、疑う気持ちを取り戻しに来た女性が言っていたことを思い出す。集まりの人たちが、急にこの店のことを口にしなくなった、と。
「それと、店の中を勝手に調べるようなことも、もうしません。以前は失礼しました」
男はもう一度頭を下げた。
「代表からの伝言です」
店主は少しの間、男を見ていた。
「うちは客が減るだけだよ」
「申し訳ありません」
「謝られることでもないけどね」
店主はいつもの調子で笑ったが、男は笑わなかった。
「理由は聞かない方がいい?」
店主が聞くと、男は少しだけ迷うような顔をした。
「代表が、決めたことです」
それ以上は言わなかった。
男は帰ろうとして、戸の前で足を止める。それから振り返り、カウンターの内側にいるキョウを見た。
前に来たときのような、店の中の位置を覚えるような目ではない。何かを確かめるように、キョウの顔から肩、それからカウンターの上に置かれた手へと、ゆっくり視線が動いていく。
「手は、動くんですね」
キョウは少し戸惑った。
「店主に、貸してもらってるので」
「そうですか」
男はしばらく黙っていた。
何か言いかけたように口が少し動き、それから閉じる。
「お元気で」
それだけ言って、男は戸を開けて出ていった。
戸が閉まる。
キョウはしばらく、閉まった戸を見ていた。
お元気で。
店に来た客に、そんなふうに言われたのは初めてだった。客が店員にかける言葉にしては、どこか重たい。
前に来たとき、あの男はキョウに興味などなさそうだった。店の仕組みと、店主のことと、箱のことばかり聞いていた。
今日は違った。
店のことより、自分のことを見ていた気がする。
「店主」
店主は帳簿を片づけながら、何、と短く返した。
キョウはカウンターの上の帳簿を見下ろす。表紙の間に、新聞の切り抜きと、前にもらった似顔絵が挟んである。
雨宿りに来た看護師の話。三年前の事故。駅の向こうの病院。団体から来た客にだけ、いつもと違うことをするレイと店主。そして今の男のお元気で、という言葉。
一つ一つは、たいしたことじゃない。
それでも、全部を並べると、どれも同じ方向を向いている気がした。
「僕、あの団体と関係あるんですか」
店主の手が止まった。
ほんの一瞬だけで、すぐにまた帳簿を棚に戻す。
「どうしてそう思うの」
「なんとなく、です」
「なんとなく」
「さっきの人、僕のこと知ってるみたいでした」
店主はゆっくりとキョウの方に向き直った。
いつもの笑顔だった。何も読み取れない、いつもの顔。
「それを教えないのが契約だよ」
キョウは店主を見返した。
「契約って、僕がここに来たときにした契約ですよね」
「そうだね」
「僕が教えないでくださいって頼んだんですか」
「そうだよ」
キョウは何も言えなくなった。
関係ない、とは言わなかった。
知らない、とも言わなかった。
教えないのが契約だ、と店主は言った。それはつまり教えることが何かある、ということだ。
キョウは帳簿の表紙に手を置いた。中に挟んだ記事の場所を、指が勝手に探している。
「思い出したかったら、買い戻せばいいよ」
店主が言った。
「全部戻れば、全部分かる。それが契約」
「当分先なんですよね」
「当分先だね」
店主は笑って、奥へ戻っていった。
一人になった店の中で、キョウは帳簿を開いた。
新聞の切り抜きと、似顔絵が並んで挟まっている。三年間意識のなかった女性の記事と、自分の隣だけが空白になった絵。
自分が何を忘れたのかは分からない。
けれど、自分が忘れたいと思うほどの何かが、確かにあったのだということだけは、今日初めてはっきり分かった気がした。
キョウは帳簿を閉じて、戸の方を見た。
さっきの男が出ていったあとの戸は、もう何事もなかったように閉まっている。
お元気で、と男は言った。
あの言葉は、誰から預かってきたものだったのだろう。




