47話 特別
雨がやんだばかりの午後、戸が開いてレイが入ってきた。
一人ではなかった。後ろに、薄い色のコートを着た女性が立っている。両手で鞄を抱えたその顔に、キョウは見覚えがあった。少し前に、団体から教えられてこの店に来て、疑う気持ちを売っていった人だ。
ただ、あのときより頬が痩せていて、目の縁が赤い。
「お客さん」
レイはそう言って、女性をカウンターの前の椅子に座らせた。それから自分もいつもの丸椅子に腰を下ろし、女性の横顔をちらりと見る。
「駅前のベンチにいたの。寒そうだったから」
キョウは少し驚いてレイを見た。
レイは客に直接声をかけない。噂を置いて、本人が自分で店を探しに来るのを待つ。それがレイのやり方だと前に聞いたし、実際にレイが誰かを連れて戸をくぐってきたのを見るのは、これが初めてだった。
奥から店主が出てくる。
「久しぶりだね」
「覚えててくださったんですね」
「疑念を売っていった人でしょ」
キョウがお茶を淹れて置くと、女性は両手で湯呑みを包み、しばらく黙っていた。
「あれを、返してもらうことはできますか」
キョウは帳簿をめくった。女性の名前の横に『疑念』、そして買取済みの文字がある。
「何かあったんですか」
キョウが聞くと、女性は少しだけ笑った。疲れた笑い方だった。
「疑えなくなって、最初はすごく楽だったんです。集まりの人たちの言うことも、職場の人の言うことも、全部そのまま受け取れるようになって」
売ったお金の大半は、言っていた通り集まりに渡したという。
「それからしばらくして、知り合いに紹介された人から投資の話をされて。普通だったら怪しいって思う話だったと思います。でも、何も引っかからなかった」
女性の指が鞄の持ち手を強く握る。
「貯金、ほとんどなくなりました」
レイが膝の上で組んだ指に、少しだけ力を入れたのがキョウには見えた。
「それでも、集まりの人たちがいるから大丈夫だと思ってたんです。でも最近、急に変わって」
「変わった?」
「この店のことを、誰も口にしなくなったんです。前は、手放せないものがあるならあの店に行きなさいってみんな言ってたのに。献金も、もう無理にしなくていいって言われて」
女性は戸惑ったように首をかしげた。
「理由は教えてもらえませんでした。でも、それを聞いたとき足元がなくなったみたいで。誰を信じればいいのか、分からなくなったんです」
レイは何も言わずに、女性の方を見ていた。
「疑えないから、誰でも信じられるはずなのに。何を信じていいのか、自分で決められない」
女性は顔を上げて店主を見た。
「返してもらえますか。前みたいに、怖がりでもいいので」
店主は棚から一つの箱を持ってきてカウンターに置いた。ラベルには『疑念』とだけある。
キョウは帳簿の買取の文字を見つめていた。
買い取ったものを取り戻すには、売ったときとは比べものにならない値段がかかる。絵の才能を売った女性は、提示された金額を見て黙って帰っていった。一年かけて母の記憶を買い戻した男は、貯めたお金のほとんどを払っていった。
今のこの人に、そんなお金があるとは思えない。
「返すよ」
店主が言った。
女性が顔を上げる。
「いくら、ですか」
「いらない」
キョウは思わず店主を見た。
女性も、何を言われたのか分からないという顔をしている。
「でも、買取だったんですよね。戻すには、高いお金がかかるって」
「今回はいいよ」
店主は箱の上に手を置き、箱が消えた。
「外に出てからね。疑うのはちゃんと疲れるから、しばらくは無理しないで」
女性は箱のあった場所をしばらく見つめていたが、やがて立ち上がり、深く頭を下げた。それからレイの方へも向き直る。
「連れてきてくださって、ありがとうございました」
「別に。通りかかっただけだから」
レイはそう言って目をそらしたが、女性が戸を開けて出ていくまで、その背中をずっと見ていた。
戸が閉まる。
キョウは帳簿に受け出し済みと書き込み、ペンを置いた。
店の中が静かになる。
「二人とも、今日いつもと違いますよね」
レイと店主が、同時にキョウを見た。
「レイさんは客に直接声をかけないって言ってたし、店主は買い取ったものをただで返したりしないじゃないですか」
キョウは店主の方を向く。
「前に絵の才能を買い戻しに来た人には、すごい値段言ってましたよね。母親の記憶を買い戻した人からも、ちゃんと取ってました。何で今回は」
「あの二人は、自分で決めて売っていったからね」
「今の人も、自分で決めたって言ってましたよ」
「言ってたね」
店主は空いた棚の一角に目をやった。
「誰かに教えられて来たって分かってて、うちは買ったからね」
キョウは次にレイを見る。
「レイさんは」
「何」
「何でわざわざ連れてきたんですか」
レイは少しだけ黙った。
「あの団体から来た人だったから」
「団体の人だと、何か違うんですか」
「違うっていうか」
レイは言いかけて、言葉を探すように指先でカウンターの縁をなぞった。
「放っといたら、また誰かに教えられたところに行きそうだったから。それなら、ここの方がまだましでしょ」
キョウは二人を見比べた。
団体から来た客のことを、少し前まで店主は「様子見」と言っていた。契約しているのは本人だから止めない、と。レイも「私は入口を教えるだけ」と言っていたはずだ。
それが今は、二人ともあの団体の人にだけ、いつもと違うことをしている。
「何で団体のことになると、二人とも」
キョウが言いかけると、店主が帳簿を指さした。
「キョウ、今の人の行、日付書き忘れてるよ」
キョウは慌ててペンを取る。
書き込みながら顔を上げると、店主はもう奥へ戻りかけていて、レイはスマートフォンに目を落としていた。
画面は点いていなかった。
はぐらかされたのは分かっている。
それでも、どうしてあの団体のことになると、二人ともこんなに静かになるのか。キョウにはその理由が、少しも分からなかった。




