46話 欲しいもの
昼を過ぎても客は来なかった。
キョウは帳簿の頁をなんとなくめくっていて、気づけばまた、あの男の名前が並んだ頁を開いていた。スペイン語、囲碁、フランス語、簿記、ギター、中国語。数年分の取引が、同じ名前で埋まっている。
隣の丸椅子では、レイがスマートフォンを眺めている。
「あの人、次は何を持ってくるんでしょうね」
「将棋じゃなかったっけ」
「候補の一つって言ってました。医療系の資格もいいなって」
「じゃあキョウと話が合うかもね」
レイは画面から顔を上げずに言う。
キョウは帳簿を閉じて、棚の方を見た。あの男のスペイン語も、今はどこかの箱に入って並んでいるのだろう。誰かが買いに来るまで、静かにそこで待っている。
「レイさん」
「何」
「この店で、何か買いたいものってないんですか」
レイの指が、画面の上で止まった。
「何で」
「昨日の人、売るばっかりだったじゃないですか。それで逆に、買う人のこと考えてて。絵の才能を買っていった人もいたし」
キョウは棚に並ぶ箱を眺める。
「レイさんはずっとこの店に出入りしてるのに、何か買ってるところ見たことないなって」
レイはスマートフォンを膝の上に伏せた。
すぐには答えない。いつもならここで適当に茶化すか、「別に」で終わらせるはずなのに、今日のレイは棚の方を見たまま黙っている。
「あるよ」
しばらくしてから、レイが言った。
キョウは少し驚いてレイを見る。
「あるんですか」
「あるって言ってるじゃん」
「何ですか」
「教えません」
前にキョウ自身が練習させられた台詞だった。
「それ、ずるくないですか」
「ずるくないよ。聞かれても余計なこと答えない練習、したでしょ」
「僕がした練習ですよね、それ」
「私が教えたんだから、私も使っていいの」
レイは少しだけ笑ったが、その笑い方はいつもより短い気がした。
「でも、まだ買ってないんですよね」
「うん」
「高いんですか」
「値段の問題じゃない」
レイは膝の上で手を組む。
「欲しいものはあるんだけど、ここにあるのは、たぶん全部ちょっと違うの」
キョウは棚を見た。何十、何百と並ぶ箱。その中に、レイの欲しいものと似ているけれど違うものが、いくつも入っているのだろうか。
「違うって、どういうことですか」
「教えません」
「それ二回目です」
「何回でも使えるの」
奥から店主が出てきて、カウンターの端に湯呑みを三つ置いた。
「レイは昔から欲しがってるよね」
レイが店主を睨む。
「余計なこと言わないで」
「昔からって、いつからですか」
キョウが聞くと、店主はレイの方を見てから肩をすくめた。
「さあ。覚えてないくらい前から」
「店主、それ前も言ってましたよね。レイさんと知り合ってどれくらいか覚えてないって」
「言ったね」
レイは湯呑みを手に取って、何も言わずにお茶を飲んだ。
キョウはそれ以上聞かなかった。聞いたところで教えてもらえないのは分かっているし、レイがいつもより静かなのも分かっていた。
しばらく、湯呑みを置く音だけが店の中に響く。
「キョウは?」
レイが言った。
「何がですか」
「欲しいもの。この店で」
キョウは少し考える。
自分の目と手足と記憶。それは欲しいというより、取り戻すものだ。それ以外で、この棚の中から何か一つ選べると言われたら。
「……分からないです」
「何も?」
「何が欲しいのかも、よく分からないので」
レイは湯呑みを両手で包んだまま、キョウを見た。
「それが一番困るよね」
「そうですか」
「欲しいものが分かってるだけ、私の方がまだましかも」
レイはそう言って、また棚に目を戻す。
キョウもつられて棚を見た。
レイが欲しいもの。この店にあるはずなのに、どれも少しずつ違うもの。
自分には何のことか見当もつかない。
けれど、昔からずっとそれを探しているのだとしたら、レイが客を探して外を歩き回っているのも、ただの趣味ではないのかもしれない、とキョウは思った。
「見つかるといいですね」
キョウが言うと、レイは少しだけ目を細めた。
「そうだね」
それから、いつもの調子に戻って付け加える。
「見つかっても、キョウには教えないけど」
「分かってますよ」
店主が小さく笑って、空になった湯呑みを片づけ始めた。
戸の外を、誰かの足音が通り過ぎていく。
今日はまだ、誰も戸を開けない。




