45話 変わった人
その客は、戸を開けるなり店主に向かって手を上げた。
「お久しぶりです」
三十代半ばくらいの男で、肩から大きなトートバッグを提げている。人懐っこい笑顔のまま店の中を見回し、カウンターにいるキョウに目を留めた。
「あれ、店員さんがいる」
「半年くらい前からです」
「そうなんだ。前に来たときは店主さん一人だったから」
男は椅子に座ると、トートバッグからくたびれたノートを何冊も取り出してカウンターに積み上げた。表紙には手書きでスペイン語と書いてあり、中は細かい文字でびっしり埋まっている。
奥から店主が出てきて、男の顔を見て笑った。
「一年ぶりくらいかな」
「一年半です。今回はちょっと時間かかっちゃって」
隣の丸椅子にいたレイが、身を乗り出してノートを覗き込んだ。
「スペイン語?」
「はい。旅行の会話くらいじゃなくて、新聞が読めて、仕事でも使えるくらいまで」
男は嬉しそうに言う。
「最初の三か月は単語ばっかりで、半年過ぎたあたりから急に耳が慣れてきて。一年経つころには夢までスペイン語で見るようになりました」
「すごいですね」
キョウが言うと、男は照れたように頭をかいた。
店主が何か短い言葉を口にした。キョウには一言も分からなかったが、男は目を輝かせてすぐに同じような調子で返し、二人はしばらく知らない言葉でやり取りを続けた。
レイが小声でキョウに聞く。
「店主、スペイン語しゃべれるの」
「僕に聞かないでください」
やがて店主が日本語に戻った。
「うん、ちゃんと身についてるね」
「でしょう」
男は胸を張る。
「それで、これを売りに来たんです」
キョウは思わず男の顔を見た。
「一年半かけて覚えたのに、ですか」
「はい。いつもそうなんです」
男はあっさりと言って、トートバッグの中からさらに一枚の紙を取り出した。何かの一覧表らしく、項目がいくつも並んでいる。
「次は何を勉強しようかなって、もう候補を考えてて。将棋か、ピアノか、それとも医療系の資格もいいなって」
「いつもって、どういうことですか」
キョウが聞くと、店主が帳簿をめくってキョウの前に差し出した。
一年半前の頁に、男の名前がある。その横に『囲碁』。さらにさかのぼると『フランス語』、その前に『簿記』『ギター』『中国語』と続いていて、数年分の頁にわたって同じ名前が何度も現れていた。
「この人、うちの常連なんだよ」
店主が言った。
「何か覚えて、売って、そのお金で暮らしながら次のことを覚えて、また売りに来る」
「生活、それでできるんですか」
「できますよ。知識って、欲しい人がけっこういるんで」
男はにこにこしている。
「語学は特に高く売れるんです。仕事で急に必要になった人とか、留学したいけど時間がない人とか」
キョウは帳簿の頁を眺めた。ずらりと並んだ項目の多さに、少しだけ感心してしまう。
「全部、忘れちゃうんですよね」
「忘れます。売ったら、もう何も分からなくなる」
「もったいなくないですか」
「よく言われます」
男は笑って、積み上げたノートの一番上を指でなぞった。
「でも僕、覚えたあとより、覚えていく途中が一番好きなんですよ。何も分からないところから、ちょっとずつ分かるようになっていくあの感じ。全部分かっちゃうと、なんだか満足して終わりなんです」
「持っていても、使わないってことですか」
「使わないですね。使う予定もないし」
それから、少し声を落とした。
「それに、ちゃんと誰かの役に立つじゃないですか。僕が持ってても棚に飾ってるのと同じだけど、必要な人のところに行けば、その人の仕事になる」
店主が帳簿の空いた行に書き込み始めた。
「スペイン語、買取ね」
「お願いします」
男は迷いなく指を押した。
店主が封筒を差し出すと、男は中身を確かめもせずにトートバッグにしまう。
男は立ち上がり、積み上げていたノートを一冊ずつトートバッグに戻していく。
「そのノートも、もう読めなくなるんですよね」
キョウが聞く。
「読めなくなりますね。でも毎回取っておくんですよ。自分の字なのに全然読めないの、ちょっと面白いんで」
レイが吹き出した。
「変な人」
「よく言われます」
男は戸の前で振り返り、一覧表をひらひらと振ってみせた。
「次は何にするか決まったら、また来ます。たぶん一年後くらいに」
「待ってるよ」
店主が言うと、男は手を上げて出ていった。
戸が閉まって、店の中が少しだけ静かになる。
キョウは帳簿の、男の名前がずらりと並んだ頁をもう一度めくった。何年も前の日付から、今日の行まで。
「中国語、二回売ってますね」
キョウが指さした先には、同じ『中国語』の文字が、数年の間を置いて二度並んでいた。
「たぶん本人は覚えてないよ」
店主は笑った。
「二回目のときも、すごく楽しそうに勉強してたって言ってた」
レイが丸椅子の上で伸びをする。
「毎回初めてなんだ」
「そういうことだね」
キョウは帳簿を閉じた。
何かを手放すために来る人も、取り戻すために来る人もいる。そして、手放すこと自体を暮らしの一部にしている人もいる。
「色んな人がいますね」
キョウが言うと、店主はいつもの調子で頷いた。
「いい客だよ。あの人は」
レイは戸の方を見たまま、少しだけ笑っていた。
「次は何持ってくるんだろうね」
「将棋だったら面白いですね」
「キョウ、将棋できるの?」
「分からないです。覚えてないので」
「じゃあ、あの人に教わればいいじゃん。売る前に」
キョウは少し考えて、それも悪くないかもしれないと思った。




