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44話 雨宿り

夕方から降り出した雨は、日が暮れるころには路地を叩くような音に変わっていた。


閉店の札はもう掛けてある。レイは丸椅子の上で膝を抱えたまま、戸の向こうの雨音に顔をしかめていた。


「帰れないんだけど」


「傘、持ってこなかったんですか」


「朝は晴れてたもん」


「天気予報、見ないんですか」


「見ないよ、そんなの」


キョウが帳簿を閉じたちょうどそのとき、戸が控えめに叩かれた。


一度。少し間を置いて、もう一度。


キョウが戸を開けると、ずぶ濡れの女性が立っていた。三十前くらいだろうか。肩までの髪から雨が滴り、上着の色が濡れて濃く変わっている。


「すみません、雨宿りさせてください」


声は申し訳なさそうで、それ以上に疲れて聞こえた。


「どうぞ」


キョウは戸を大きく開けて、女性を中に入れた。奥からタオルを持ってきて渡すと、女性は何度も頭を下げながら髪を拭き、カウンターの前の椅子に腰を下ろした。


レイは丸椅子の上から、女性を眺めている。


女性はタオルを膝に置いて、店の中を見回した。カウンター、帳簿、奥の棚に並ぶ小さな箱。そこで目が止まる。


「ここって」


少しだけ迷うような間があった。


「もしかして、噂の質屋さんですか。何でも預かってくれるっていう」


キョウとレイは顔を見合わせた。


「そうですけど、今日はもう閉店してるので」


「あ、違うんです。本当に雨宿りで」


女性は慌てたように手を振ってから、少しだけ笑った。


「でも、この前を何回か通ったことはあるんです。入る勇気がなかっただけで」


キョウはお茶を淹れて女性の前に置いた。湯気の向こうで、女性の手が湯呑みを包む。指先が赤く荒れていて、何度も消毒をしてきた手だとキョウは思った。


「病院の方ですか」


女性が顔を上げる。


「どうして分かったんですか」


「手が、そういう感じだったので」


「看護師です。さっき夜勤明けで、家に帰る途中だったんですけど」


女性はお茶を一口飲んで、ほっと息を吐いた。


「駅の向こうの病院です」


レイの膝を抱える手が、少しだけ動いた。キョウはそれに気づかないまま、女性の話の続きを待っていた。


雨の音が強くなる。


しばらく黙っていた女性は、やがて湯呑みに目を落としたまま話し始めた。


「先週、ずっと担当してた患者さんが亡くなったんです。半年くらい、毎日顔を見て、話をして、家族の方とも仲良くなって」


声は落ち着いているのに、湯呑みを持つ指に力が入っている。


「仕事だから慣れなきゃいけないのは分かってるんです。でも、毎回こうなっちゃって。同期にはもっと割り切ってる子もいて、そういう子の方がずっと長く続けられてる」


「それで、ここに」


キョウが言うと、女性は小さく頷いた。


「患者さんを大事に思う気持ちを預けられたら、楽になれるかなって。何回も前まで来て、そのたびにやめてたんです」


レイは何も言わずに雨音を聞いている。


キョウは女性の荒れた手を見ていた。


「その気持ちがなくなったら、患者さんに話しかけたりもしなくなるんですか」


「たぶん、必要なことしか言わなくなると思います」


女性は少しだけ笑った。


「それでも仕事はできますから」


キョウは少し考えてから口を開いた。


「返事がない患者さんにも、話しかけたりしますか」


女性が顔を上げる。


「します。うちの病棟、意識のない方も多いので」


「そういうとき、家族の人はたぶん、すごく救われてると思います」


言いながら、キョウは自分の言葉に少し驚いていた。


「毎日お見舞いに来ても、何を話しかけていいのか分からなくなる日があるんです。話しかけても返事がないと、自分のやってることに意味があるのか分からなくなる。そういうときに、看護師さんが当たり前みたいに名前を呼んで、今日は天気がいいですよとか話しかけてくれてるのを見ると、ここにいていいんだって思えるんだと思います」


女性はじっとキョウを見ていた。


「……ご家族の方が入院されてたんですか」


キョウは答えようとして、言葉が出てこなかった。


「分からないです。なんとなく、そう思っただけで」


レイが膝を抱えたまま、ゆっくりと目を伏せる。


女性は湯呑みを両手で包み直して、しばらく黙っていた。


「三年、ずっと話しかけてた子がいるんです」


雨音にまぎれそうな声だった。


「事故で入院してきて、ずっと目を開けてるのに何も返ってこなくて。それでも毎朝、カーテンを開けるときに声をかけてたんです。今日は晴れてるよとか、雨だよとか」


女性の目が少しだけ潤んだ。


「その子が最近、返事をしてくれるようになったんです。うん、って。小さい声で」


キョウの手が、カウンターの上で止まった。


胸の奥で、何かが小さく鳴ったような気がする。


「それは」


声が少しかすれた。


「よかったですね」


「はい。本当に」


女性は笑って、指先で目元を拭った。


「その子のことがなかったら、もう辞めてたかもしれません」


雨は少しずつ弱くなっていた。屋根を叩いていた音が、いつのまにか細い糸のような音に変わっている。


女性は窓の外を見て、湯呑みを置いた。


「止みそうですね」


「まだ少し降ってますよ」


「これくらいなら走って帰れます」


立ち上がった女性は、タオルを丁寧にたたんでキョウに返し、それから棚の箱をもう一度だけ見た。


「やっぱり、預けるのはやめておきます」


「いいんですか」


「あの子が明日も返事してくれるかもしれないので。話しかける気持ちがなくなってたら、もったいないじゃないですか」


女性は少しだけ笑った。


「お茶、ごちそうさまでした。雨宿りさせてもらって、ありがとうございました」


戸を開けると、湿った夜の空気が流れ込んでくる。女性はもう一度頭を下げて、路地を駅の方へ走っていった。


戸が閉まる。


キョウはしばらく、閉まった戸を見ていた。


「客、一人逃がしたね」


奥から店主の声がする。いつから聞いていたのか、戸口にもたれて立っていた。


「客じゃないです。雨宿りです」


「そう」


店主は笑って、また奥へ戻っていく。


レイは丸椅子から立ち上がって、窓の外を覗いた。


「止んだね」


「レイさんも帰れますね」


「うん」


鞄を肩に掛けたレイは、戸の前で少しだけ立ち止まった。


「さっきの話」


「はい」


「家族の人が救われるってやつ。よく分かったね」


キョウは自分の手を見る。


「なんとなく、です」


「そっか」


レイはそれ以上何も言わずに戸を開けた。雨上がりの路地が、街灯の光を映して濡れたまま光っている。


「おやすみ」


「おやすみなさい」


戸が閉まって、店の中に雨の名残の匂いだけが残った。


キョウは湯呑みを片づけながら、さっきの看護師の言葉を思い返していた。


三年、ずっと話しかけていた子。


最近、返事をするようになった子。


帳簿の間に挟んだ新聞記事のことが、ふと頭に浮かぶ。駅の向こうの病院。三年間意識のなかった女性。


あの記事の女性のことかもしれない、とキョウは思った。


毎朝カーテンを開けながら声をかけてくれる人がいて、その声に、小さく「うん」と返せるようになった人。会ったこともないその人の姿を思い浮かべると、胸の奥で鳴った小さな音が、片づけを終えて灯りを消すまでなかなか消えなかった。

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