43話 ファイトマネー
閉店の札を掛けてから、もう一時間ほど経っている。
キョウは奥で寝ていて、私は丸椅子に座ったまま店主が帳簿を閉じるのを眺めていた。
戸が乱暴に叩かれる。一度、二度。
「休みって書いてあるのにね」
店主がそう言い終わる前に、返事も待たずに戸が開いた。
入ってきたのは四人の男だ。二十歳前後で、大学生くらいだろうか。三人は笑いながら、眼鏡をかけた一人を挟むようにして立っている。
眼鏡の青年だけが笑っていなかった。
細い腕に俯いた顔。肩を掴まれたまま引きずられるように店に入ってくる姿は、どう見ても自分の足で来た人間のものではない。
「ここ? マジで何でも買ってくれるとこ」
一番背の高い男が言う。
「買うんじゃなくて、預かるんだけどね」
「腕とか、すげえ高く売れるって聞いたんだけど」
背の高い男が青年の右腕を掴んで持ち上げると、青年の顔が少しだけ歪んだ。
「こいつの、預けたいんだって」
後ろの二人が笑う。
唇は白く、膝は少し震えていて、目は床の一点から動かない。分かりやすい顔だと思った。この子は何も手放したくなんかない。ただ怖いだけだ。
「本人が預けたいの?」
店主が聞いても、青年は答えない。
背の高い男が掴んだ腕に力を入れた。
「言えよ」
「……はい。自分の、意思です」
消えそうな声に、後ろの二人がまた笑った。
店主は青年の顔から手元までをゆっくりと見ていく。値踏みするときの目だ。
断るだろうと私は思っていた。本人が手放したいと思っていないものは預からないのが、この店のやり方だったから。
「いいよ」
思わず店主の顔を見直していた。
背の高い男が口笛を吹く。
「マジで? いくら?」
「腕一本なら、それなりにね」
店主は帳簿を開いて青年に名前を聞き、震える声で答えられた名前を書き込んでいく。私の場所からは、何と書いたのかまでは見えない。
「ここに指を押して」
帳簿の上で止まった青年の指は、背の高い男に背中を小突かれてようやく押された。
店主は帳簿を閉じ、青年だけを見て言った。
「預かったよ。右腕」
青年の顔から血の気が引いていく。
店主がカウンターの下から分厚い封筒を取り出すと、背の高い男がすかさず手を伸ばした。店主はその手から封筒を引く。
「お金は契約した本人に渡すことになってるんだ」
「は? 一緒だろ」
「うちの決まりだから」
封筒を青年の手に置いて、店主は付け加えた。
「効くのは外に出てからね」
青年は封筒を握ったまま、もうすぐ動かなくなるはずの自分の右腕を見つめている。その襟首を背の高い男が掴み、四人はそのまま店を出ていった。
戸が閉まる。
「……預かったの? 腕」
店主は答えずに、棚に新しい箱を置いた。
小さな箱のラベルには、さっきの青年の名前と、その下に『恐怖』の二文字。
私はそのラベルを二度読んだ。
「嘘ついたの」
「たまにはね」
外で声がする。
戸を少しだけ開けて路地を覗くと、街灯の下で背の高い男が青年の手から封筒を取ろうとしていた。
青年は離さない。
「離せよ」
「嫌だ」
震えていない声に、背の高い男が一瞬動きを止める。それから青年の胸を突き飛ばし、青年はよろけて壁にぶつかった。
それでも封筒を胸に抱えたまま顔を上げる。
「これは、僕のだ」
「腕を売った金だろ。俺らが連れてきてやったんだから」
「僕の腕だ」
青年が右腕を振り上げた。
当たり前のように動く。預けたのは腕じゃないのだから。けれど本人はまだそれに気づかないまま、動かなくなるはずの腕で背の高い男の肩を殴った。
力の入っていない、喧嘩なんて一度もしたことのない殴り方だ。
殴り返された青年は地面に倒れ、立ち上がり、また殴られて倒れ、それでもまた立ち上がる。鼻から血が流れ、眼鏡が路地の端に転がっても、封筒だけは離さない。
私は戸の縁を握っていた。
キョウが起きていたら、外に出られないことも忘れて敷居をまたごうとしていたに違いない。
でも私は出なかった。出たところで何も変わらない気がしたし、あの子が自分の足で立っている今、私が出ていけばそれを取り上げてしまう気がしたからだ。
四度目に立ち上がった青年に、背の高い男は拳を上げかけて止めた。後ろの二人が顔を見合わせる。
「……なんだこいつ。気持ち悪」
青年は何も言わず、ただ立って三人を見ている。怖がっていない目で。
背の高い男が舌打ちをした。
「もういいわ。行こうぜ」
三人は一度も振り返らずに路地の向こうへ歩いていき、青年はその背中が見えなくなるまで立ち続けてから、壁に手をついてずるずると座り込んだ。
私は静かに戸を閉めた。
しばらくして戸が開き、眼鏡の青年が入ってくる。
鼻の下には血がこびりつき、頬は腫れ、拾ってきた眼鏡は片方のレンズが割れている。封筒を胸に抱えたまま、青年は店の中を見回した。
「……あの」
「おかえり」
店主の声に、青年は自分の右腕を持ち上げて指を開き、また閉じる。
「動くんですけど」
「そうだね」
「預けたんですよね、腕」
「預かったのは恐怖だよ」
青年は店主の顔をじっと見つめ、それから棚の上の、自分の名前が書かれた小さな箱に目を移した。
「……嘘、ついたんですか」
「まあね」
青年はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。
「怖くなかったんです。殴られても、痛いのに全然怖くなかった。いつもならあいつらの顔を見ただけで声も出なかったのに」
関節の赤くなった拳を見下ろして、青年は小さく付け足す。
「負けましたけど」
「見てたよ。四回立ったね」
私がそう言うと、青年は少し驚いたようにこちらを見て、口の端をわずかに動かした。笑ったのかもしれないが、腫れた頬のせいでよく分からない。
店主が棚から『恐怖』の箱を取り、カウンターに置いた。
「これは返すよ」
「え」
「怖いって気持ちはね、君を守ってきたものでもあるんだ。なくしたままだと、立ち上がっちゃいけない場面でも立ち上がるようになる」
店主は箱の上に手を置く。
「今夜、自分で立ち向かったことは覚えてるでしょ」
「……はい」
「なら大丈夫。怖いのが戻っても、四回立った自分のことは消えないから」
箱が消えた。
「外に出たら戻るからね」
青年は箱のあった場所をしばらく見ていたが、思い出したように封筒を差し出した。
「じゃあ、これ」
「いらないよ」
「でも、何も預けてないことになるんじゃ」
「面白いもの見せてもらったから。ファイトマネー」
封筒と店主を何度も見比べる青年がおかしくて、私は丸椅子の上で小さく笑ってしまう。
「もらっときなよ」
困ったように眉を下げてから、青年は封筒をゆっくりと鞄にしまい、割れた眼鏡がずれるほど深く頭を下げた。
戸の前で、一度だけ振り返る。
「次に会ったら、勝てると思いますか」
「勝てなくても、もう連れてこられることはないんじゃない?」
青年は小さく頷いて出ていき、戸が閉まると店の中はまた静かになった。奥の戸の向こうからは何の音もしない。キョウはまだ眠っている。
「キョウが起きてたら、止めてたね」
「だろうね。だから、寝てる夜でよかった」
店主は帳簿を開き、さっきの頁に何かを書き足している。
「止めた方がよかったんじゃないの」
「止めたら、あの子は今夜も怖いまま帰ってたよ」
返す言葉が見つからないまま、私は帳簿を閉じる店主の手を見ていた。
「嘘、つくんだね」
もう一度そう言うと、店主はいつもの笑顔でこちらを見る。
「たまにはね」
それから、少しだけ付け足した。
「君も、似たようなことしてるでしょ」
私は答えなかった。
奥の戸の向こうでは、キョウが何も知らずに眠り続けている。




