42話 朝
店の戸を開けたのは、開店のずっと前だった。
外はまだ薄暗い。路地には誰もいない。
「早いね」
カウンターの奥で、店主が帳簿を広げていた。こんな時間なのに、いつもと同じ場所に、いつもと同じ顔で座っている。
「キョウは」
「まだ寝てるよ」
レイは奥の戸を見た。中から音はしない。
丸椅子には座らなかった。カウンターの前に立ったまま、鞄を下ろす。
何も言わないつもりだった。昨日、病院からの帰り道でそう決めた。
でも、店主の顔を見たら、それができなかった。
「昨日、病院行ってきた」
店主はペンを置いた。
「そう」
「妹さん、看護師さんに返事してたよ。うんって。声、ちゃんと出てた」
「よかったね」
「父親にも会った」
店主は何も言わなかった。ただ、レイの顔を見ていた。
「最初にお金届けたときのこと、覚えてた。キョウは無事かって聞かれた。怪我はしてないか、ちゃんと食べてるかって」
「何て答えたの」
「無事です。食べてますって」
「本当のことだね」
「うん」
レイはカウンターに手をついた。
「それから、毎月キョウの名前で振り込みが来るって」
店の中が静かになった。
店主の表情は変わらなかった。
「店主でしょ」
「何が」
「振り込み」
店主は少しだけ首をかしげた。
「さあね」
「とぼけないで」
レイの声が少しだけ強くなった。
「キョウの稼ぎを外に出せるのなんて、店主しかいないじゃん」
店主はしばらくレイを見ていた。
それから、帳簿の表紙を指で軽く叩いた。
「前に君が言ってたでしょ。治療費、まだ要るんだって」
レイは言葉に詰まった。
言った。何週間か前、病院の帰りに店に寄って、何気なく話した。最初の分だけじゃ足りなかったらしい、あの子の妹はこれからもお金がかかるって。
店主は、そのときも「そう」としか言わなかった。
「覚えてたんだ」
「聞いたからね」
「何で言ってくれなかったの」
「聞かれなかったから」
「そういうところ」
レイは小さく息を吐いた。
「当分先って言ってたの、そういうこと?」
「当分先だよ。送ってる分、遅くなるからね」
店主はあっさり言った。
「キョウのお金を、キョウの家族に送ってるだけ。あの子が最初の日に一番したかったことでしょ」
レイは何も言い返せなかった。
その通りだったから。
「それに」
店主は帳簿の上で指を組んだ。
「まだキョウを外に出すわけにはいかないしね」
レイは店主を見た。
「どういう意味」
「そのままの意味」
「全部戻ったら、出られるんでしょ。それが契約なんじゃないの」
「そうだよ」
「じゃあ、出すわけにはいかないって何」
店主は笑った。
いつもの、何も読み取れない顔だった。
「さあね」
レイは眉を寄せた。
辛いだけだから戻さない方がいい。そう思っているのは自分だ。店主は買い戻しをやめろとは一度も言っていない。いつか全部そろう日が来るように、キョウを働かせ続けている。
それなのに、まだ出すわけにはいかない。
何を待っているのか、レイには分からなかった。
「キョウが知ったら、怒るかな」
レイは話を戻した。
「自分のお金、勝手に使われてたって」
「知る頃には、全部戻ってるよ」
店主は少しだけ笑った。
「そのとき怒るかどうかは、あの子が決めることだね」
レイは丸椅子に座った。
ようやく、座れた気がした。
「父親がね」
レイは言った。
「団体のこと、自分から話した。娘の治療費のために人を集めたって。あの店に行けばいいって教えてたって」
「うん」
「それで、その店にキョウがいたって」
店主は黙って聞いていた。
「私、言っちゃった。キョウは、あの店に人が来るのをあんまり喜んでないって」
「余計なこと言ったね」
「分かってる」
「向こうが人を送らなくなったら、うちの客は減るよ」
「それも分かってる」
店主は笑った。
怒っているようには見えなかった。
「それと」
レイは膝の上で手を組んだ。
「キョウに伝えてくれって頼まれた。お前のせいじゃないって」
「伝えたの?」
「伝えられないって言った」
「そう」
「伝えてもキョウには分からないし。分かるときは、全部思い出すときだし」
レイは奥の戸を見た。
「いつか、伝えていいの?」
店主はすぐには答えなかった。
帳簿を閉じて、その上に手を置く。
「伝えるのは、私たちじゃないと思うよ」
レイは店主を見た。
「誰」
「さあね」
いつもの答えだった。
でも、今日のさあねは、少しだけ違って聞こえた。
奥で物音がした。
戸が開いて、キョウが出てきた。髪に寝癖がついている。
「おはようございます」
まだ眠そうな声だった。
それから、丸椅子に座っているレイを見て、目を丸くした。
「レイさん、早いですね」
「たまたま」
「最近、たまたま多くないですか」
「たまたまが続く日もあるの」
キョウは首をかしげて、カウンターの内側に入った。
「何の話してたんですか」
「何も」
レイと店主が、ほとんど同時に言った。
キョウは二人を見比べた。
「……絶対何か話してましたよね」
「寝癖ついてるよ」
レイが言った。
キョウが慌てて頭を触る。
今日は本当についていた。
「今度は本当ですね」
「たまにはね」
店主が笑った。
キョウは寝癖を手で押さえながら、帳簿を開いた。
いつもの朝が始まる。
レイはその横顔を見て、それから戸の方を見た。
外が少しずつ明るくなっていた。




