↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
41/53

41話 様子見


駅の向こうの病院に来るのは、久しぶりだった。


客を探すためじゃない。今日はそう決めて来た。


エレベーターで五階に上がる。廊下の一番奥の病室の戸が、半分だけ開いていた。


中で看護師が誰かに話しかけている。


「今日は天気がいいですよ。窓、少し開けましょうか」


少し間があって、小さな声が返った。


「……うん」


かすれた、聞き取れるかどうかの声だった。


私は廊下の途中で足を止めていた。


看護師が窓を開ける。冷たい風がカーテンを揺らす。ベッドの上の女の子が、ゆっくりとカーテンの方へ顔を向けた。


私は戸の前を通り過ぎた。


中には入らない。


それから、同じ階の反対側の病室に向かった。


こちらの戸は閉まっていた。


少しだけ迷ってから、ノックをした。


「どうぞ」


かすれた声がした。


戸を開けると、ベッドの上の男がこちらに目を向けた。首から下は動いていない。最後に会ったときより、少しだけ痩せていた。


男は私の顔をしばらく見ていた。


「……あのときの」


覚えていたらしい。


「ご無沙汰しています」


私は頭を下げてから、ベッドの横の椅子に座った。


五か月近く前、雨の夜だった。私はこの病室に分厚い封筒を持ってきた。男は誰からかと聞いた。私は答えなかった。キョウがどこにいるのかも、何をしたのかも言わなかった。


ただ、本人から預かってきたとだけ言った。


あの夜のこの人の顔を、私はまだ覚えている。


「娘さんの病室の前を通りました」


男の目がこちらに動いた。


「看護師さんに、返事をしていました」


「ああ」


男の声が少しだけ柔らかくなった。


「最近になって、うなずくようになった。声も少しだけ出る。毎日少しずつ言葉が増えてる。医者も驚いてるよ」


「そうでしたか」


それ以上、何と言えばいいのか分からなかった。


男は天井を見た。


しばらく、どちらも何も言わなかった。


「あいつは」


男が言った。


声が少しだけ硬くなっていた。


「無事なのか」


私は男を見た。


この人はもう、キョウがどこにいるのか知っている。でも、知っているのはそれだけだ。どんな店なのか、そこで何をしているのか、どんな顔をしているのか。何も知らない。


「無事です」


「怪我は」


「していません」


「ちゃんと、食べてるのか」


「食べています」


焼き芋を食べていた顔を思い出した。


「そうか」


男は目を閉じた。


長い息を吐く。


「あんたが金を持ってきた夜から、それきりだった。生きてるのかどうかも分からなかった」


男の目が開いた。


「毎月、あいつの名前で振り込みが来る」


私は返事をしなかった。


できなかった。


「最初の金だけでも、どうやって作ったのか分からないような額だった。それが、今も続いてる」


男の声が少しだけ震えた。


「どうやって作ってる金なのか、考えると怖くなる。あいつは、本当に無事なのか」


「……無事です」


声が少しだけ遅れた。


振り込み。


キョウの名前で。


キョウは知らない。私も知らなかった。


キョウの稼ぎを外に送れる人間は、一人しかいない。


当分先だと言いながら、ずっと。


「そのお金で、娘さんの治療を」


「ああ。全部、娘に回してる」


男は天井を見たまま言った。


「あいつには、何もしてやれていないのにな」


私は何も言えなかった。


男は少しの間、黙っていた。


それから、私の方を見ずに言った。


「うちの人間が、あの店に人を送ってるのは知ってるか」


「知っています」


「そうか」


男の目が、天井の一点で止まった。


「娘の治療費が必要だった。俺はこの身体だ。働けない。だから人を集めた。話を聞いて、救いだと言って、金を出してもらった」


かすれた声が、少しずつ低くなる。


「あの店のことを知ってからは、そこへ行けばいいと教えるようになった。何を手放すかは本人が決めることだと言いながら」


男はそこで言葉を切った。


「その店に、あいつがいた」


病室の中が静かになった。


点滴の落ちる音だけが聞こえる。


私は膝の上で手を組んだ。


言うべきかどうか、少しだけ迷った。


「キョウは」


声に出してから、名前を呼んでしまったことに気づいた。でも、もう遅かった。


「あの店に人が来るのを、あまり喜んでいません」


男の目が、ゆっくりとこちらに動いた。


「何かを手放しに来た人を見送るとき、いつも少しだけ嫌そうな顔をするんです。止めたいのに止められない、みたいな顔」


男は何も言わなかった。


「あなたの団体から来た人のことも、気にしていました。売ったお金をどこに持っていくのか。その人がそのあとどうなるのか」


私はそれ以上言わなかった。


言わなくても、この人には分かると思った。


男は長い間、黙っていた。


目の端が、少しだけ光った。


拭う手は、動かない。


「……そうか」


それだけだった。


でも、その「そうか」は、さっきまでのものとは少し違って聞こえた。


「名前を、聞いてもいいか」


しばらくして、男が言った。


「すみません。やめておきます」


「そうか」


男はそれ以上聞かなかった。


「頼みがある」


男は天井を見たまま言った。


「あいつに伝えてくれないか。お前のせいじゃないと」


私はもう一度、膝の上で手を組み直した。


この人は、キョウが何も覚えていないことを知らない。


伝えたところで、キョウには何のことか分からない。分かるようになるときは、全部を思い出すときだ。


そして全部を思い出したら、キョウはまた。


「すみません」


私は言った。


「お伝えできません」


男は何も言わなかった。


怒られるかと思った。理由を聞かれるかと思った。


でも男は、しばらく黙ってから小さく言った。


「そうか」


私は立ち上がって、もう一度頭を下げた。


「また、伺います」


自分でも、なぜそう言ったのか分からなかった。


男の目がこちらに動いた。


「娘の方にも、寄ってやってくれ」


「中には入れません」


「それでもいい」


私は戸を閉めた。


廊下を戻る途中、さっきの病室の前を通った。


戸はまだ半分開いていた。看護師はもういない。


女の子の目が、廊下の方を見ていた。


私の方を見ていたのかどうかは分からない。


私は立ち止まらずに通り過ぎた。


駅の方へ歩きながら、私は店主の顔を思い浮かべた。


いつもの笑顔。何を考えているのか分からない顔。


あの人は嘘はつかない。ただ、本当のことを全部言うわけでもない。


「……ずるい人」


声に出して、少しだけ笑った。


明日、店に行ったら何て言おう。


たぶん、何も言わない。


あの人が何も言わないのと同じように。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。