41話 様子見
駅の向こうの病院に来るのは、久しぶりだった。
客を探すためじゃない。今日はそう決めて来た。
エレベーターで五階に上がる。廊下の一番奥の病室の戸が、半分だけ開いていた。
中で看護師が誰かに話しかけている。
「今日は天気がいいですよ。窓、少し開けましょうか」
少し間があって、小さな声が返った。
「……うん」
かすれた、聞き取れるかどうかの声だった。
私は廊下の途中で足を止めていた。
看護師が窓を開ける。冷たい風がカーテンを揺らす。ベッドの上の女の子が、ゆっくりとカーテンの方へ顔を向けた。
私は戸の前を通り過ぎた。
中には入らない。
それから、同じ階の反対側の病室に向かった。
こちらの戸は閉まっていた。
少しだけ迷ってから、ノックをした。
「どうぞ」
かすれた声がした。
戸を開けると、ベッドの上の男がこちらに目を向けた。首から下は動いていない。最後に会ったときより、少しだけ痩せていた。
男は私の顔をしばらく見ていた。
「……あのときの」
覚えていたらしい。
「ご無沙汰しています」
私は頭を下げてから、ベッドの横の椅子に座った。
五か月近く前、雨の夜だった。私はこの病室に分厚い封筒を持ってきた。男は誰からかと聞いた。私は答えなかった。キョウがどこにいるのかも、何をしたのかも言わなかった。
ただ、本人から預かってきたとだけ言った。
あの夜のこの人の顔を、私はまだ覚えている。
「娘さんの病室の前を通りました」
男の目がこちらに動いた。
「看護師さんに、返事をしていました」
「ああ」
男の声が少しだけ柔らかくなった。
「最近になって、うなずくようになった。声も少しだけ出る。毎日少しずつ言葉が増えてる。医者も驚いてるよ」
「そうでしたか」
それ以上、何と言えばいいのか分からなかった。
男は天井を見た。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
「あいつは」
男が言った。
声が少しだけ硬くなっていた。
「無事なのか」
私は男を見た。
この人はもう、キョウがどこにいるのか知っている。でも、知っているのはそれだけだ。どんな店なのか、そこで何をしているのか、どんな顔をしているのか。何も知らない。
「無事です」
「怪我は」
「していません」
「ちゃんと、食べてるのか」
「食べています」
焼き芋を食べていた顔を思い出した。
「そうか」
男は目を閉じた。
長い息を吐く。
「あんたが金を持ってきた夜から、それきりだった。生きてるのかどうかも分からなかった」
男の目が開いた。
「毎月、あいつの名前で振り込みが来る」
私は返事をしなかった。
できなかった。
「最初の金だけでも、どうやって作ったのか分からないような額だった。それが、今も続いてる」
男の声が少しだけ震えた。
「どうやって作ってる金なのか、考えると怖くなる。あいつは、本当に無事なのか」
「……無事です」
声が少しだけ遅れた。
振り込み。
キョウの名前で。
キョウは知らない。私も知らなかった。
キョウの稼ぎを外に送れる人間は、一人しかいない。
当分先だと言いながら、ずっと。
「そのお金で、娘さんの治療を」
「ああ。全部、娘に回してる」
男は天井を見たまま言った。
「あいつには、何もしてやれていないのにな」
私は何も言えなかった。
男は少しの間、黙っていた。
それから、私の方を見ずに言った。
「うちの人間が、あの店に人を送ってるのは知ってるか」
「知っています」
「そうか」
男の目が、天井の一点で止まった。
「娘の治療費が必要だった。俺はこの身体だ。働けない。だから人を集めた。話を聞いて、救いだと言って、金を出してもらった」
かすれた声が、少しずつ低くなる。
「あの店のことを知ってからは、そこへ行けばいいと教えるようになった。何を手放すかは本人が決めることだと言いながら」
男はそこで言葉を切った。
「その店に、あいつがいた」
病室の中が静かになった。
点滴の落ちる音だけが聞こえる。
私は膝の上で手を組んだ。
言うべきかどうか、少しだけ迷った。
「キョウは」
声に出してから、名前を呼んでしまったことに気づいた。でも、もう遅かった。
「あの店に人が来るのを、あまり喜んでいません」
男の目が、ゆっくりとこちらに動いた。
「何かを手放しに来た人を見送るとき、いつも少しだけ嫌そうな顔をするんです。止めたいのに止められない、みたいな顔」
男は何も言わなかった。
「あなたの団体から来た人のことも、気にしていました。売ったお金をどこに持っていくのか。その人がそのあとどうなるのか」
私はそれ以上言わなかった。
言わなくても、この人には分かると思った。
男は長い間、黙っていた。
目の端が、少しだけ光った。
拭う手は、動かない。
「……そうか」
それだけだった。
でも、その「そうか」は、さっきまでのものとは少し違って聞こえた。
「名前を、聞いてもいいか」
しばらくして、男が言った。
「すみません。やめておきます」
「そうか」
男はそれ以上聞かなかった。
「頼みがある」
男は天井を見たまま言った。
「あいつに伝えてくれないか。お前のせいじゃないと」
私はもう一度、膝の上で手を組み直した。
この人は、キョウが何も覚えていないことを知らない。
伝えたところで、キョウには何のことか分からない。分かるようになるときは、全部を思い出すときだ。
そして全部を思い出したら、キョウはまた。
「すみません」
私は言った。
「お伝えできません」
男は何も言わなかった。
怒られるかと思った。理由を聞かれるかと思った。
でも男は、しばらく黙ってから小さく言った。
「そうか」
私は立ち上がって、もう一度頭を下げた。
「また、伺います」
自分でも、なぜそう言ったのか分からなかった。
男の目がこちらに動いた。
「娘の方にも、寄ってやってくれ」
「中には入れません」
「それでもいい」
私は戸を閉めた。
廊下を戻る途中、さっきの病室の前を通った。
戸はまだ半分開いていた。看護師はもういない。
女の子の目が、廊下の方を見ていた。
私の方を見ていたのかどうかは分からない。
私は立ち止まらずに通り過ぎた。
駅の方へ歩きながら、私は店主の顔を思い浮かべた。
いつもの笑顔。何を考えているのか分からない顔。
あの人は嘘はつかない。ただ、本当のことを全部言うわけでもない。
「……ずるい人」
声に出して、少しだけ笑った。
明日、店に行ったら何て言おう。
たぶん、何も言わない。
あの人が何も言わないのと同じように。




