40話 掃除
「レイさん、最近ずっといますよね」
キョウが帳簿を書きながら言うと、隣の丸椅子にいたレイがスマートフォンから顔を上げた。
「いたら駄目なの」
「駄目じゃないですけど」
キョウはペンを止めた。
「前は何日も来ない日があったじゃないですか。外で客を探すのが仕事だって」
「探してるよ」
「ここで?」
「ここから」
「意味が分からないです」
「寒いんだもん」
レイは丸椅子の上で膝を抱えた。
「最近、朝晩ほんとに寒いよ。外に何時間もいたら風邪ひく」
「ちゃんと仕事してください」
「キョウ、私の上司だったっけ」
前にも聞いた台詞だった。
奥から店主が出てきた。両手に雑巾とバケツを持っている。
「ちょうどいいや。二人とも手伝って」
「何をですか」
「掃除」
「今からですか」
「今日は客が来ない気がするから」
レイが露骨に嫌そうな顔をした。
「私、店員じゃないんだけど」
「最近ずっといるでしょ」
「いるだけだもん」
「いるなら働いて」
店主はレイの膝の上に雑巾を一枚落とした。
レイはしばらくそれを見ていたが、やがてため息をついて立ち上がった。
「寒いから来てるのに、水仕事させるの」
「お湯にしてあるよ」
「そういう問題じゃない」
最初はカウンターと床だった。レイは文句を言いながら床を拭き、キョウはカウンターの傷に入り込んだ埃を一つずつ取った。店主は窓を拭いていた。
一時間ほどで、店の表はきれいになった。
「次は棚ね」
店主が言った。
キョウは奥の棚を見た。
小さな箱が何段にも並んでいる。
「箱、全部ですか」
「全部」
「何個あるんですか」
「数えたことないね」
レイが小さくうめいた。
棚の箱を一つずつ取り出して、埃を払い、拭いて、元の場所に戻す。それだけの作業だった。
キョウは手前の段から始めた。
最初に手に取った箱には『嫉妬』と書いてあった。同期に追いつけないと苦しんでいた男のものだ。その隣に『責任感』。ラベルの下に、知らない男の子の名前がある。弟を介護していた姉が置いていった箱。
その次は『罪悪感』だった。
人を轢いたと言っていた男。家族と笑えるようになったけれど、花を送るのをやめた男。
キョウは箱を拭いて、元の場所に戻した。
「覚えてるの」
隣の段を拭いていたレイが聞いた。
「何をですか」
「誰のか」
「だいたいは。ここに来てからの人なら」
キョウは次の箱を取った。
『家族への愛情』。
五百万が欲しいと言って、腕も目も嫌だと言った男。最後に一番高いものを置いていった。
その少し横に『疑念』の箱が二つ並んでいた。一つには名前がなく、もう一つには知らない男の名前がある。
キョウは二つの箱を見比べた。
どちらも、あの団体から来た人だった。
レイがそれを横目で見て、何も言わずに自分の段に戻った。
中ほどの段に、少し大きめの箱があった。
『右腕』。
車のローンのために腕を差し出して、返せなくなった男のものだ。カウンター越しに、動かなくなった腕をさすりながら頭を下げていた顔を、キョウは覚えている。
「これ、まだあるんですね」
「売れてないからね」
店主が窓を拭きながら答えた。
「腕なら売れるんじゃないんですか」
「売れるよ。欲しい人が来ればね」
キョウは箱を拭いた。
この中に、誰かの腕がある。
自分の腕も、どこかに同じように入っている。
上の段に行くにつれて、知らない箱が増えていった。
ラベルの字が薄くなっている。紙が茶色く変色しているものもある。名前は読めても、誰なのか分からない。
『記憶』『怒り』『声』『恐怖』。
『初恋』と書かれた箱は、ラベルの角が擦り切れていた。
「これ、いつのですか」
「さあ。だいぶ前だね」
「この人たちは、取りに来ないんですか」
「来ない人の方が多いよ」
店主はあっさり言った。
「覚えてないか、もういないか。どっちかだね」
キョウは『初恋』の箱を見た。
誰かの初恋が、何年もここで埃をかぶっていた。
本人はもう、それがあったことすら知らないのかもしれない。
キョウは箱を丁寧に拭いて、元の場所に戻した。
一番上の段の端に、小さな箱が一つだけ離れて置いてあった。
ほかの箱より古い。木の色が黒ずんでいる。ラベルは貼ってあったが、文字が擦れてほとんど読めなかった。
キョウが手を伸ばしかけたとき、店主が言った。
「それはいいよ」
キョウは手を止めた。
店主は窓を拭く手を止めずにいた。こちらを見てもいない。
「拭かなくていいんですか」
「私がやるから」
いつもと同じ声だった。
でも、店主が自分から「私がやる」と言うのを、キョウは初めて聞いた気がした。
「誰のなんですか」
「昔のお客さん」
「取りに来ないんですか」
店主は少しだけ間を置いた。
「来ないね」
それだけだった。
キョウはその箱から手を引いた。
レイが脚立の上からその箱を見ていた。何か言いかけたようだったが、言わなかった。
最後に残ったのは、棚の一番奥の段だった。
七つの箱。
キョウは一つずつ取り出した。
右目。左目。右腕。左腕。右脚。左脚。
どれも普通の箱だった。持っても重くない。中で何かが動く気配もない。
最後の一つを手に取った。
記憶。
ほかの六つと同じ大きさで、同じ重さだった。
キョウはしばらくそれを持っていた。
この中に、自分が知らない自分がいる。
誰かの顔や、誰かの声や、なぜ全部を手放したのかという理由が。
何も感じなかった。
箱は箱でしかなかった。
「重い?」
レイが聞いた。
キョウは首を振った。
「普通です」
「そう」
キョウは箱を拭いて、元の場所に戻した。七つ、きちんと並べ直す。
それで、棚の掃除は終わった。
日が暮れる頃には、店の中はすっかりきれいになっていた。
結局、客は一人も来なかった。
レイは丸椅子に座り込んで、背中を丸めていた。
「もう無理。腰痛い」
「床拭いてただけですよね」
「床が一番腰にくるの」
「僕、ずっと立って棚拭いてましたけど」
「キョウは若いから」
「レイさんもそんなに変わらないですよね」
レイは答えずに、丸椅子の上でもう一度背中を丸めた。
店主は最後に、一番上の段の端に置かれた古い箱を下ろした。
一人で、ゆっくりと埃を払う。
キョウは帳簿を閉じながら、それを見ていた。
店主は箱を拭き終わると、少しの間だけそれを手に持ったまま動かなかった。
それから、元の場所に戻した。
「お疲れさま」
振り返った店主は、いつもの顔だった。
キョウは何も聞かなかった。
この店には、自分が知らないことがまだたくさんある。
それでも今日拭いた箱の数だけ、少しだけこの店のことが分かった気がした。




