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39話 善意

閉店の札を掛けたあとも、レイは帰らなかった。


キョウはもう奥で寝ている。戸の向こうからは何の音もしない。


店主はカウンターで帳簿を広げていた。今日の分を書き終えたらしく、ペンは置いたままだった。


「新聞」


店主が言った。


レイは丸椅子の上で足を組み替えた。


「何」


「わざと持ってきたの?」


「気まぐれ」


「気まぐれ?」


「電車で隣の人が置いてったのを、何となく持ってきただけ」


「ケーキ屋の記事のために?」


「そう」


店主は少しだけ笑った。


「優しいね」


「違う」


レイはすぐに言った。


「気まぐれって言ったでしょ」


「気まぐれで、あの記事の載ってる面を一番上にして持ってきたんだ」


レイは答えなかった。


店主は帳簿を軽く叩いた。


「あの子、記事をここに挟んでたよ。絵の隣に」


「知ってる」


昼間、キョウが感覚のない指で角をそろえて、丁寧に挟んでいたのを見ていた。


「何で挟んだのか、本人は分かってなかったね」


「分かるわけないでしょ」


レイは少しだけ声を強くした。


それから、自分でそれに気づいたように黙った。


店の外を、誰かの足音が通り過ぎていく。


「君、取り戻しても辛いだけだと思ってるんでしょ」


店主が言った。


レイは店主を見た。


言ったことはなかったはずだ。


「顔に書いてあるよ」


「書いてない」


「じゃあ、思ってない?」


レイは答えなかった。


思っている。


全部戻ってきたら、キョウはまたあの雨の夜の顔に戻る。それなら、ここで帳簿をつけている方がいい。


だから、何も教えない。思い出させない。


そう決めていたはずだった。


「見せたって、あの子は何も思い出さないよ」


レイは言った。


「名前も書いてないし、写真も病院だけだし。知らない人の記事を読んだのと同じ」


「そうだね」


「だから、別に意味なんてないの」


「意味がないのに持ってきた」


「だから気まぐれ」


店主は帳簿を閉じた。


「キョウ、よかったですねって言ってたね」


レイは戸の方を見た。


閉まった戸の向こうには駅がある。駅の向こうには、大きな病院がある。


昼間、キョウは記事を読みながら、ずっと難しい言葉を口にしていた。何年も前から考えていたみたいに、すらすらと。


それから、最後に小さな声で言った。


よかったですね。


誰に向かって言っているのか、本人も分かっていなかった。


「言ってたね」


レイはそれだけ言った。


「聞けてよかった?」


「別に」


「ふうん」


「何」


「何でもないよ」


店主は笑っていた。


レイはしばらく黙っていたが、やがて閉じた帳簿を見た。


「ねえ」


「何?」


「キョウの買い戻し、そんなに長くかからないでしょ」


店主の指が、帳簿の表紙の上で止まった。


「どうしてそう思うの」


「この店でどれだけお金が動いてるか、私だって知ってるよ」


レイは棚の方を見た。


「腕一本で、普通の人が何年働いても稼げない額が出るんでしょ。キョウはその店で毎日働いてる。半年近く」


「うん」


「七つ全部って言っても、当分先ってほどじゃないと思うんだけど」


店主は少しだけ首をかしげた。


「当分先だよ」


「本当に?」


「本当」


「いつ頃」


「さあね」


レイは店主の顔を見た。


いつもの笑顔だった。何も読み取れない。


「別に、急いでほしいわけじゃないけど」


レイは言った。


「むしろ、ゆっくりでいいと思ってる。戻ったって辛いだけだし」


「じゃあ、いいんじゃない?」


「でも、店主はキョウに買い戻しをやめろとは言わないよね」


「言わないね」


「ずっと働かせて、いつか全部そろう日が来るようにしてる」


「そういう契約だからね」


「それだけ?」


店主は答えなかった。


ただ、少しだけ笑った。


レイは小さく息を吐いた。


「ほんと、何がしたいのか分かんない」


「よく言われる」


「誰に」


「君に」


レイは丸椅子から立ち上がって、鞄を肩に掛けた。


「言っとくけど、新聞はキョウのためとかじゃないから」


「分かってるよ」


「本当に分かってる?」


「気まぐれなんでしょ」


「そう」


レイは戸を開けた。冷たい空気が入ってくる。


「おやすみ」


「おやすみ」


戸が閉まった。


店主は閉じた帳簿の表紙を、しばらく指で叩いていた。


気まぐれにしては、ずいぶん遠くの駅の新聞だった。


店主は少しだけ笑って、灯りを消した。


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