38話 とある記事
レイが店に来たのは、昼を少し過ぎた頃だった。
「ただいまー」
いつものように丸椅子に座る。今日は手に紙袋ではなく、折りたたんだ新聞を持っていた。
キョウは帳簿から顔を上げた。
「新聞なんか読むんですか」
「なんかって何」
「いや、読んでるところ見たことないので」
「たまに読むよ」
「本当ですか」
「電車で隣の人が置いてったの」
「拾っただけじゃないですか」
「拾ったら読むでしょ」
レイは新聞をカウンターに広げた。端の方が少し湿っている。
「ほら、これ。駅前のケーキ屋、閉店するんだって」
地域の欄の小さな記事を指さす。
「この前のお菓子のところですか」
「違う。もっと前に買ったところ」
「覚えてないです」
「でしょうね」
レイは記事をざっと眺めて、それからあくびをした。
「あとはいいや。キョウにあげる」
「いらないですよ」
「暇つぶしにはなるでしょ」
レイは新聞をキョウの方へ押しやって、スマートフォンを取り出した。
キョウは仕方なく新聞をめくった。
政治の話。どこかの企業の決算。天気。外の世界のことは、ここにいるとよく分からない。読んでも、自分には関係のないことばかりだった。
社会面をめくったところで、手が止まった。
左下の、それほど大きくない記事だった。
逆走事故で三年間意識不明の女性 意識回復の兆し
キョウは記事を読んだ。
三年前の秋、高速道路で逆走車による多重事故が発生した。逆走した車の運転手は死亡。巻き込まれた乗用車には家族三人が乗っていた。
運転していた長男(当時二十)は軽傷。逆走車を避けようととっさにハンドルを右に切り、逆走車は車の左側に衝突したとみられる。
助手席に乗っていた長女(当時十八)は頭を強く打ち、意識不明の重体となった。
後部座席の父親(当時五十一)は首の骨を折る重傷を負い、現在も寝たきりの状態が続いている。
キョウは事故の段落を読み終えて、少しだけ眉を寄せた。
「運転してた人、たぶんとっさに自分を守ったんだと思います」
「何で分かるの」
レイが顔を上げずに聞いた。
「危ないとき、人って反射的に自分の側をかばうようにハンドルを切るんです。考えてやるわけじゃなくて、身体が勝手に動く。だから助手席の方にぶつかった」
キョウは記事の「軽傷」という二文字を見た。
「この人だけ、軽い怪我で済んでますね」
「まぁ、仕方ないでしょ」
レイはあっさり言った。
「逆走してきた方が悪いんだし。とっさのことなんて、誰も選べないよ」
「そうですね」
キョウは頷いた。
「誰でもそうなると思います」
それ以上、事故のことは特に何も思わなかった。
ひどい事故だ、とは思う。でも、それだけだった。
キョウの目は、その先の段落で止まった。
長女は事故後、遷延性意識障害と診断されていた。
遷延性意識障害。
知っている言葉だった。
知っている、というより…
家族の希望により、昨年から脊髄に電気刺激を与える治療を受けていた。国内ではまだ研究段階で、保険は適用されない。
キョウは記事を最初から読み直した。
先月ごろから、呼びかけに目を向けるなどの反応が見られるようになった。主治医によると、簡単な指示に応じて手を握り返すこともあるという。
「……三年で」
声に出ていた。
レイがスマートフォンから顔を上げた。
「何?」
「三年経ってから、ここまで反応が戻るのって、すごく珍しいんです」
キョウは記事から目を離さなかった。
「普通は、事故から何か月かで良くなるかどうかがだいたい決まるって言われてて。一年を過ぎると、そこから意識が戻ることはほとんどないって」
「へえ」
「目で追えるようになったってことは、周りが見えてるってことです。手を握り返すっていうのは、言われたことが分かってる。完全に戻ったわけじゃないけど、中にちゃんといるってことなんです」
言いながら、自分でも少し驚いていた。
言葉がすらすら出てくる。
客に病院を勧めるときとは違った。もっと前から、何度も何度も同じことを考えていたみたいに。
「この治療も、効く人の方が少ないんです。たぶん、家族は効かないかもしれないって分かってて、それでも続けたんだと思います。保険もきかないのに」
キョウは記事の写真を見た。病院の建物が写っているだけで、人は写っていない。
「それ、この近くの病院の子らしいよ」
レイが言った。
キョウは顔を上げた。
「そうなんですか」
「駅で誰か話してた。駅の向こうの、大きい病院」
「何で知ってるんですか」
「だから、話してたの聞いただけ」
レイはスマートフォンに目を戻した。
キョウはもう一度写真を見た。
駅の向こう。ここから歩いて行ける距離だ。
もちろん、自分は行けないけれど。
「ここからが長いんです」
キョウは記事に目を戻した。
「話せるようになるまでも、自分で食べられるようになるまでも。リハビリを何年も続けないといけない。家族も大変だったでしょうけど、これからもきっと大変です」
レイは何も言わなかった。
「でも」
キョウは記事の最後の一行を見た。
同じ車に乗っていて、現在も寝たきりの状態が続く父親は「本当によかった」と話している。
「よかったですね」
小さな声だった。
自分が何に対してよかったと言っているのか、よく分からなかった。会ったこともない人だ。名前も書いていない。
それなのに、胸の奥が少しだけ熱かった。
「詳しいね」
レイが言った。
「この病気のことは、なんか、よく知ってる気がするんです」
キョウは自分の手を見た。
「ほかの病気より、ずっと」
「何でだろうね」
「分かりません」
レイはスマートフォンを見ていた。画面は点いていなかった。
奥から店主が出てきた。カウンターに広げられた新聞を、ちらりと見る。
それから何も言わずに、棚の箱を整え始めた。
キョウは新聞を閉じようとして、やめた。
「レイさん」
「何」
「これ、もらってもいいですか」
「あげるって言ったじゃん」
「この記事だけ、取っておいてもいいですか」
レイは少しだけ間を置いた。
「好きにすれば」
キョウは記事のところを丁寧に折った。感覚のない指で、角をそろえる。
帳簿の間に、前にもらった絵が挟んである。自分の顔と、隣の空白。
キョウはその隣に、折った記事を挟んだ。
帳簿を閉じる。
なぜそこに挟んだのかは、自分でも分からなかった。




