37話 嘘
「嘘をつく力って、売ってますか」
女はカウンターの前に立つなり、そう言った。
二十代の後半くらい。会社帰りらしいスーツ姿で、肩から大きな鞄を提げている。言い終わってから、自分でも変なことを言ったと思ったのか、少しだけ顔を赤くした。
キョウは帳簿から顔を上げた。
売りたい、ではなく、売っていますか。
買いに来た客だった。
奥から店主が出てきた。
「あるよ」
女の顔がぱっと明るくなった。
「本当ですか」
「ちょうど一つ。座って」
女は椅子に座ると、鞄を膝の上に抱えた。
「私、嘘がつけないんです」
「全然?」
「全然です」
女は指を折りながら話し始めた。
友達が新しい服を買って「どう?」と聞いてくると、似合っていなければ似合っていないと言ってしまう。職場の飲み会で上司の話がつまらないと、顔に出る。後輩の企画書を見て、ここが駄目だと全部言ってしまう。
「サプライズのパーティーとか、絶対にばれるんです。準備してるのに、本人の前で目が泳いじゃって」
「正直なのは悪いことじゃないよ」
店主が言った。
「みんなそう言うんです」
女は少しだけ笑った。
「でも、正直な人って、思ってるほど好かれないんですよ」
友達は少しずつ減った。職場では「きつい人」と言われている。悪気がないのは分かってもらえる。でも、分かってもらえることと、好かれることは違う。
「この前、祖母が入院したんです」
女の声が少しだけ小さくなった。
「お見舞いに行ったら、祖母が『私、もう長くないのかね』って聞いてきて」
女は鞄の持ち手を握った。
「大丈夫だよって、言えなかったんです。お医者さんから聞いてたので。黙っちゃって。祖母はそれで分かったみたいで、笑ってくれたんですけど」
キョウは何も言えなかった。
「嘘が上手な人になりたいわけじゃないんです。ただ、言わなくていい本当のことを言わずに済むくらいには、なりたくて」
店主は棚の方へ行き、小さな箱を一つ持って戻ってきた。
ラベルには『嘘』とだけ書いてある。
「これを入れたら、嘘しか言えなくなったりします?」
女が不安そうに聞いた。
「ならないよ。嘘をつける力が増えるだけ。本当のことを言いたいときは、今まで通り言える」
「選べるってことですか」
「そう。今の君は、選べないだけ」
女は箱を見た。
「これ、誰かが売ったものなんですよね」
「そうだね」
「その人は、嘘がつけなくなったんですか」
「長いこと嘘ばかりついて生きてきた人でね。疲れたんだって。今は正直に暮らしてるらしいよ」
女は少しだけ安心したような顔をした。
店主が紙に金額を書く。
女は少し驚いたが、すぐに頷いた。
「お願いします」
帳簿に指を押す。
店主が箱に手を置いた。
箱が消えた。
「外に出てからだよ」
「はい」
女は立ち上がって、深く頭を下げた。
戸が閉まった。
キョウは消えた箱のあった場所を見ていた。
「嘘って、買えるんですね」
「売れるんだから、買えるよ」
「何か悪いことに使われたりしないんですか」
「使う人もいるかもね」
店主はあっさり言った。
「でも、あの人は大丈夫じゃない?」
それから二週間ほど経った頃、女はもう一度店に来た。
何かを預けに来たわけでも、買いに来たわけでもなかった。手には駅前の洋菓子店の紙袋を提げている。
「この前のお礼です」
カウンターに袋を置く。
レイが丸椅子から身を乗り出した。
「どうだった?」
女はレイを見て、少し笑った。
「すごく楽になりました」
友達の結婚式があったという。花嫁が控室で、ドレスが似合っているか何度も聞いてきた。
「正直、私の好みじゃなかったんです。でも、すごく似合ってるよって言えました」
女は少しだけ照れた。
「言ったあと、自分でもびっくりしたんです。嘘なのに、言ってよかったって思えて。花嫁さん、ずっと緊張してたのが、それで泣き笑いになって」
職場でも、後輩の企画書を見て、まず良いところを言うようになった。直してほしいところは、そのあとで言う。
「前と言ってる中身は変わらないんですけど、聞いてもらえるようになりました」
「おばあさんは?」
キョウが聞いた。
女は少しだけ黙った。
「先週、また聞かれました。もう長くないのかねって」
「それで」
「大丈夫だよ、って言いました。また来るからねって」
女は紙袋の持ち手を指でなぞった。
「祖母、安心した顔して寝ちゃいました。それが本当のことじゃなくても、言えてよかったです」
店の中が少し静かになった。
「嘘ばっかりついてるわけじゃないですよ」
女は付け足すように言った。
「本当のことを言いたいときは、ちゃんと言えます。言わなくていいときに、言わなくて済むようになっただけで」
キョウは紙袋を見た。
「今日のお礼は、本当ですか」
聞いてから、少し失礼だったかと思った。
女は笑った。
「本当です」
女が帰ったあと、レイが紙袋を開けた。焼き菓子が六つ入っていた。
「いい人だったね」
「はい」
キョウは菓子を一つ受け取った。
「僕、嘘ってない方がいいものだと思ってました」
「ふうん」
「でも、あった方が生きやすいこともあるんですね」
店主が奥から出てきて、レイの手元から菓子を一つ取った。
「人は思ってるより、嘘に助けられてるよ」
「店主は助けられる側じゃなくて、つく側ですよね」
キョウが言うと、店主は菓子を一口かじった。
「ひどいな」
「客の前でも、平気で大事なこと言わないじゃないですか」
「聞かれなかったからね」
「そういうところです」
キョウはため息をついた。
「僕も、いっぱい騙されてそうです」
「心外だね」
「じゃあ騙してないんですか」
店主は笑った。
「どうだろうね」
「ほら」
キョウは菓子を食べた。甘かった。
この人が本当のことを全部言わないのは、もう分かっている。働き始めてから何度もそうだった。当分先と言われるのも、さあねと言われるのも、慣れてしまった。
レイは何も言わずに、菓子の包みを開けていた。
いつもなら、レイはこういうときに何か言う。からかうか、店主の肩を持つふりをして茶化すか。
今日は何も言わなかった。
キョウは少しだけレイを見た。
レイは菓子を見ていた。
「レイさんも騙されてそうですよね」
キョウが言うと、レイはようやく顔を上げた。
「私?」
「店主に」
レイは少しだけ笑った。
「そうかもね」
それだけ言って、菓子を口に入れた。




