36話 似ている
朝の駅は、いつもより少しだけ寒かった。
ホームのベンチに座って、私は人の流れを見ていた。改札から出てくる人、階段を下りてくる人、電車を待つ人。困っている人はどこにでもいる。でも私が探しているのは、自分の中の何かを本気でいらないと思っている人だけだ。
向かいのホームに、スーツの若い男がいた。
電話をしながら、何度も頭を下げている。
「はい。すみません。はい、僕の確認不足です」
たぶん自分のせいじゃない。声で分かる。それでも全部自分で引き受けて、謝っている。
電話を切ったあと、男は少しだけ空を見上げた。
それから、何もなかったみたいに電車に乗った。
キョウもああいうところがある。
聞かれたら全部答えるし、自分のせいじゃないことまで全部自分のせいにする。
私はコーヒーを一口飲んで、立ち上がった。
昼前、病院の待合室に入った。
端の席に、二十歳くらいの男の子が座っていた。膝の上に病院でもらったらしいパンフレットを広げている。同じページを何度もめくり直して、ときどき指で文字をなぞっていた。
隣には誰もいない。
診察室の前の札には、たぶん母親の名前が書いてある。
男の子はパンフレットを読み終えると、スマートフォンで何かを調べ始めた。病名だろう。難しい言葉を一つずつ打ち込んで、真剣な顔で画面を見ている。
分からないことを、分からないままにしておけない顔だった。
店に来た客の手が震えているのを見て、キョウが「病院に行った方がいいですよ」と言うときの顔に似ていた。
客の体の具合を、誰に頼まれたわけでもないのに気にかける。どこで覚えたのかも知らない知識を使って、知らない人の心配をする。
キョウは、その知識をどうして覚えたのか知らない。
でも私は知っている。
最初は、この男の子と同じだった。たった一人のために、分からない言葉を一つずつ調べ始めたのだ。
男の子が顔を上げた。診察室の戸が開いて、中年の女の人が出てくる。男の子はすぐに立ち上がって、その人の腕を取った。
客にはならなそう。
私は待合室を出た。
午後、駅の裏の公園でベンチに座った。
小学生くらいの女の子が、ブランコの横に一人で立っていた。ランドセルは地面に置いてある。
公園の入口の方を、何度も見ていた。
人が通るたびに顔を上げる。違うと分かると、また下を向く。
誰かを待っている。
キョウも、店の戸が開くたびに一瞬だけ顔を上げる。
客かなという顔じゃなくて、もっと別の顔で。
本人は気づいていない。たぶん、誰を待っているのかも知らない。
しばらくして、入口から自転車に乗った女の人が来た。女の子が走っていく。
「遅い」
「ごめんごめん」
二人は手をつないで帰っていった。
女の子は、待っていた人が来たことを知っている。
キョウは、来ても分からないかもしれない。
私は空になった紙コップを握りつぶした。
夕方、もう一度駅に戻った。
改札の横の柱に、男がもたれていた。三十前くらい。仕事帰りの格好で、片手に缶コーヒーを持っている。
飲んでいなかった。
ただ持っているだけだった。
隣に立った友人らしい男が、何か言っている。
「お前のせいじゃないって」
「分かってる」
「分かってないだろ」
「分かってるよ」
柱にもたれた男は、缶を見たまま言った。
「全部、なかったことにできたらいいのに」
私は足を止めた。
条件はそろっていた。
本気でいらないと思っている顔。自分の中のものを、邪魔だと思っている声。
少し前の私なら、もう噂を置く場所を考えていた。友人の方に小銭を拾わせて、十歩歩いて、電話のふりをする。
でも、私はその場から動かなかった。
男の顔が、あの雨の日に見たキョウの顔と同じだったから。
誰かを助けたい顔の奥に、自分なんかいなくなってしまえばいいという顔がある。
あの夜、私はそれを見て、自分のやり方を破った。
噂じゃなくて、直接声をかけた。
キョウは「どこですか」とだけ聞いた。
男が缶コーヒーをゴミ箱に捨てた。友人と一緒に改札を抜けていく。
私は見送った。
今日の収穫はゼロだった。
店に戻ったのは、閉店の少し前だった。
「ただいまー」
「おかえりなさい」
カウンターから声がした。
キョウが帳簿から顔を上げる。
戸が開いた瞬間、ほんの一瞬だけ、キョウの目が私の後ろを見た気がした。
すぐにいつもの顔に戻る。
「今日は遅かったですね」
「外、寒かった」
「何かいました?」
「いなかった」
「珍しいですね」
「珍しくないよ。いない日の方が多い」
私は丸椅子に座った。
キョウは帳簿に今日の分を書き込んでいる。真面目な顔で、一行ずつ。
朝の駅で謝っていた男。待合室でパンフレットを読み返していた男の子。公園で入口ばかり見ていた女の子。改札の横で、全部なかったことにしたいと言った男。
今日一日、私は誰を見ても、キョウのことを考えていた。
「何ですか」
キョウが顔を上げた。
「何でもない」
「見てましたよね」
「見てない」
キョウは首をかしげて、また帳簿に目を戻した。
私は戸の方を見た。
閉まった戸の向こうには、知らない人がたくさん歩いている。その中に、キョウに似た人がいくらでもいる。
でも、キョウは一人しかいない。
一人しかいないキョウを、私はここに連れてきた。
「明日も外ですか」
キョウが聞いた。
「うん」
「何か見つかるといいですね」
「そうだね」
全部を取り戻したところで、キョウが楽になるとは思えない。
目と手足が戻れば、外に出られる。でも記憶も一緒に戻ってくる。あの雨の夜の顔も、自分が何を背負っていたのかも全部。
それなら、今のままここで帳簿をつけている方がいい。
私はそう思っている。
なのに店主は、キョウに買い戻しをやめろとは言わない。
当分先だと言いながら、キョウを働かせ続けている。いつか全部そろう日が来るように。
それがキョウのためなのか、私には分からない。
あの人は契約は守る。嘘もつかない。ただ、本当のことを全部言うわけでもない。
長い付き合いなのに、あの人が何をしたいのか、私にはいまだに分からない。




