35話 振込
その日の客は二人だけだった。
一人目は指輪を質に入れた女で、二人目は先月預けた腕時計を受け出しに来た男だった。どちらも普通の客で、どちらも何も言わずに帰っていった。
夕方、キョウが帳簿を閉じると、店主が奥から出てきた。
上着を羽織っている。
「出かけるんですか」
「ちょっとね」
前にも同じことを言っていた。一日店を空けた日だ。
「戻りは」
「すぐ」
店主はカウンターの下の引き出しを開けた。中から封筒を一つ取り出し、上着の内側にしまう。
キョウはそれを見ていた。
店の金は全部店主が管理している。自分がどれだけ働いて、どれだけ返したことになっているのか、キョウは知らない。聞いても「当分先」としか言われない。
「何かの支払いですか」
「そんなところ」
店主は戸を開けた。
「留守番よろしく」
戸が閉まる。
入れ違いに、また戸が開いた。
「ただいまー」
レイだった。片手に紙袋を提げている。
「今、店主とすれ違わなかったですか」
「すれ違ったよ」
レイはいつものように丸椅子に座り、紙袋をカウンターに置いた。中から湯気の立つ包みが出てくる。
「焼き芋」
「余ったんですか」
「余った」
「二本買ったんですか」
「迷ったの」
キョウは少しだけ笑って、一本受け取った。
包みを開くと、甘い匂いがした。感覚のない手でも、温かいのは何となく分かる気がした。たぶん気のせいだ。
「店主、どこ行ったんですか」
「さあ」
「レイさんなら知ってると思って」
「私、店主の秘書じゃないよ」
レイは自分の分の焼き芋を割った。
「最近たまに出かけるんです。封筒持って」
「ふうん」
「支払いって言ってました」
「じゃあ支払いなんでしょ」
レイは焼き芋を一口食べた。
キョウも食べた。甘かった。
「僕、どれくらい返せてるんですかね」
ぽつりと言うと、レイの手が少しだけ止まった。
「何で?」
「さっき封筒見て思ったんです。店のお金って、僕が働いた分も入ってるんですよね。でも、どれくらい返したことになってるのか全然分からなくて」
「店主に聞けば」
「当分先って言われます」
「じゃあ当分先なんじゃない?」
「そうなんですけど」
キョウは焼き芋の皮を少しめくった。
「自分のためだけに働いてるのかなって、たまに思うんです。目とか手足とか記憶とか、全部自分のものを取り戻すために」
「違うの?」
「違わないです。でも、それだけだと少し」
うまく言えなかった。
レイは黙って焼き芋を食べていた。
「誰かの役に立ってたらいいなって」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
「変ですね。客から何か預かってるだけの店で」
「変じゃないよ」
レイが言った。
キョウは顔を上げた。
レイは焼き芋を見ていた。
「キョウが働いた分は、ちゃんと何かになってるよ」
「何かって」
「何か」
「またそれですか」
「私、何でも知ってるわけじゃないから」
レイは笑った。いつもの、何を考えているのか分からない顔だった。
キョウはそれ以上聞かなかった。
焼き芋の残りを食べる。
戸の向こうで、駅の方へ向かう足音がいくつも通り過ぎていった。
《同じ頃》
駅前の銀行は、もうシャッターが半分下りていた。
店主は横のATMコーナーに入った。
並んでいる人はいない。
封筒から札を出して、機械に入れる。宛先の口座番号は覚えていた。何度も確かめたからだ。
画面が切り替わる。
振込依頼人の名前を入力してください。
店主は少しだけ指を止めた。
それから、カタカナで一文字ずつ打ち込んだ。
自分の名前ではない。
今ごろ店で焼き芋でも食べている、あの子の名前だった。
確認の画面が出る。
金額。宛先。依頼人の名前。
《三日後》
病室のカーテンが、半分だけ開いていた。
男が椅子に座り、鞄から一枚の紙を出した。銀行から届いた入金の明細だった。
ベッドの上の代表は、紙を持てない。男は代表の目の前に、それを広げて見せた。
「入金がありました」
代表の目が紙の上を動く。
金額のところで止まった。
それから、少し下へ。
振込依頼人の欄。
カタカナで、名前が一つ。
代表は何も言わなかった。
ずいぶん長い間、その名前を見ていた。
男は黙って待っていた。
「……娘の分に」
かすれた声だった。
「娘の治療に、回してくれ」
「全部ですか」
「全部だ」
男が紙を畳もうとした。
「待て」
男の手が止まる。
代表は、もう一度だけ名前を見た。
カタカナの、短い名前。
それから、天井に目を戻した。
「もういい」
男は紙を鞄にしまい、立ち上がった。
カーテンを閉める前に、一度だけ振り返る。
代表は天井を見たままだった。
目の端から、何かが一筋だけ流れていた。




