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34話 一年

その客が戸を開けたのは昼過ぎだった。


三十代半ばくらいの男だった。作業着の上に薄いジャンパーを羽織っている。手には紙袋を一つ提げていた。


男は店の中を見回してから、カウンターにいるキョウに目を留めた。


「あれ」


少しだけ首をかしげる。


「前は店主さん一人だったよね」


キョウは帳簿から顔を上げた。


「前にも来られたんですか」


「一年くらい前に」


「僕は半年くらい前から働いてます」


「そうなんだ」


男は少しだけ笑った。隣の丸椅子にいたレイが、スマートフォンを伏せて男を見ていた。


奥から店主が出てきた。男の顔を見て、少しも驚かなかった。


「久しぶりだね」


「覚えてるんですか」


「覚えてるよ。買取だったでしょ」


男は頷いた。


紙袋をカウンターに置く。中には封筒が入っていた。厚みがある。


「買い戻しに来ました」


キョウは帳簿をめくった。一年前の頁。男の名前を探すのに少し時間がかかった。


見つけた。


名前の横に、母の記憶、と書いてある。その隣に買取済み。


「売ったとき、金がなかったんです」


男は椅子に座りながら言った。


「仕事を辞めたばかりで、家賃も払えなくて。母が死んで半年くらいだったかな。思い出すとつらいし、どうせならって」


「どうせなら?」


キョウが聞いた。


「つらいものを売って金になるなら、一石二鳥だと思ったんですよ。そのときは」


男は自分の手を見た。


「売ってすぐは楽でした。母の顔を思い出しても何も出てこない。写真を見ても、知らないおばさんだなって思うくらいで。悲しくもないし、寂しくもない」


「後悔したのは」


レイが聞いた。


男はレイを見て、少し考えた。


「一周忌です」


親戚が集まった。叔母が母の昔話を始めた。子どもの頃の男を連れて海に行った話。男が熱を出した夜、母が一晩中背中をさすっていた話。


みんな笑ったり泣いたりしていた。


男だけが、何の話か分からなかった。


「自分の母親の話なのに、俺だけ知らない人の話を聞いてるみたいだったんです」


男は小さく笑った。


「そのとき、売ったのは悲しみじゃなかったんだって分かりました。母そのものを売ったんだって」


店の中が静かになった。


「それから一年、働きました。前より給料のいいところに入れたので。酒もやめて、外食もやめて」


男は封筒を押し出した。


店主はそれを開けずに、紙に数字を書いた。


男の前に向ける。


キョウは横から見た。


一年前に男が受け取った金額の何倍にもなる数字だった。


男は封筒を見て、それから数字を見た。


「……足りるかな」


「数えてみれば」


店主が言った。


男は封筒の中身をカウンターに出した。一万円札の束がいくつか。キョウは数えるのを手伝った。


足りた。


ほんの少しだけ、余るくらいだった。


「ちょうど一年分くらいだね」


店主は笑った。


レイが小さく息を吐いた。


「足元見てない?」


「ちゃんと払える値段にしてるよ」


「それを足元見るって言うんだけど」


男は笑った。疲れたような、でも嬉しそうな顔だった。


「いいんです。払えるなら」


店主は棚の奥から小さな箱を一つ持ってきた。


ラベルには男の母親の名前が書いてあった。


一年間、誰にも売られずにそこにあった箱。


当たり前だった。


ほかの誰の中に入っても、知らない女の人の思い出でしかない。


「戻すよ」


店主が箱に手を置いた。


箱が消えた。


男は何も変わった様子がなかった。店の中では効かない。


「外に出てからね」


「分かってます」


男は紙袋を畳んで、立ち上がった。


戸の前で振り返る。


「ありがとうございました」


戸が開いて、閉まった。


キョウは戸を見ていた。


外で何が起きているのか、ここからは見えない。


レイが丸椅子から立った。戸を少しだけ開けて、外を覗く。


しばらくそのままだった。


それから戸を閉めて、戻ってきた。


「どうでした」


「立ち止まってた」


レイは丸椅子に座った。


「路地の真ん中で。しばらく動かなかった」


「それで?」


「泣いてた」


それだけ言って、レイはまたスマートフォンを手に取った。でも画面は点けなかった。


キョウは帳簿の男の行を見た。


買取済みの横に、店主が新しく書き込んでいる。


買い戻し済み。


この店に来てから、その文字を見るのは初めてだった。


「一年で戻せる人もいるんですね」


キョウが言った。


「一つだけだったからね」


店主は帳簿を閉じた。


キョウは棚の一番奥を見た。


七つの箱が並んでいる。


一つでも一年分の給料が要る。


自分のは七つある。しかも、自分はお金を貯めているわけではない。ここで働いて、少しずつ返しているだけだ。


「僕のは、どのくらいかかるんですか」


聞いてから、前にも同じことを聞いた気がした。


「当分先」


店主の答えも同じだった。


レイが横から言った。


「でも、ちゃんと戻るんだよ」


キョウはレイを見た。


レイはスマートフォンの暗い画面を見ていた。


「今の人みたいに。売ったときは分からなくても、戻ったら分かる」


「何がですか」


「何を売ったのか」


キョウは何も言わなかった。


レイの言い方は、いつもより少しだけ静かだった。


キョウはもう一度、七つの箱を見た。


あの人は、母親を取り戻しに来た。


自分は何を取り戻しに行くのだろう。


分からないまま、それでも戻ったら泣くのだろうか。


路地の真ん中で立ち止まって、さっきの男みたいに。


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