33話 最初の日
あの子を店の前まで連れてきたのは雨の夜だった。
もう五か月近く前になる。
傘も差さずに病院の前のベンチに座っていたのを見つけて、私は少しだけ迷った。それからいつものやり方をやめた。噂は置かなかった。直接声をかけた。
この店のことを話したとき、あの子は何も聞き返さなかった。本当かとも、どういう仕組みかとも聞かなかった。
ただ「どこですか」とだけ言った。
「お金が必要なんです」
戸を開けてカウンターの前に座るなり、あの子はそう言った。
店主は帳簿を開いたままあの子を見ていた。
「いくら?」
あの子は金額を言った。
店主は少しも驚かなかった。
「何を預けるの?」
「何なら足りますか」
「腕なら一本でもかなりいくよ」
「両方で」
即答だった。
店主がほんの少しだけ目を細めた。
「片方で足りない分はほかで埋められるよ」
「両方でいいです」
「脚は?」
「脚も」
「両方?」
「両方」
私はあの子の横顔を見ていた。
迷っている様子はなかった。値段を聞くこともなかった。腕を差し出すことも脚を差し出すことも、まるで最初から決めていたみたいだった。
いや、たぶん決めていたのだと思う。
自分だけ歩ける。自分だけ動ける。
あの子はそのことに耐えられなかった。
口には一度も出さなかったけれど。
「目は?」
店主が聞いた。
あの子はそこで初めて少しだけ黙った。
「……それも」
「全部合わせても、まだ少し足りないね」
店主は紙に数字を書いてあの子の前に向けた。
あの子はそれを見て膝の上で拳を握った。
握った手は、もうすぐ自分のものじゃなくなる。
「ほかに高いものは」
「記憶」
店主はあっさり言った。
「大切なものほど高い」
あの子は顔を上げた。
しばらく店主を見ていた。
それから思っていたよりずっと静かな声で言った。
「全部、忘れられますか」
私は息を止めた。
「全部?」
「ここに来るまでのこと。どうしてお金が必要なのかも全部」
「名前とか自分が誰かまで消すと、生きていくのは難しいよ」
「それ以外でいいです」
「勉強したことは?」
あの子は少し考えた。
「……それは残してください」
「どうして」
「困ってる人がいたときに何もできないのは嫌なので」
店主は少しだけ笑った。
「欲張りだね。全部忘れたいのに」
あの子は何も答えなかった。
店主は帳簿にあの子の名前を書いた。カタカナではなく漢字で。私の場所からは読めなかった。
それからペンを置いた。
「一つ言っておくね」
あの子が顔を上げる。
「うちは効くのは店を出てからなんだ。このまま契約して外に出たら、君は目も見えない、手も足も動かない、何があったかも覚えていない」
店主は天気の話でもするような声で言った。
「何もできずに、そのへんで死ぬよ」
あの子は黙っていた。
それでもいいと言いそうな顔をしていた。
だから私は思わずあの子の腕をつかみかけた。
その前に店主が続けた。
「それじゃこっちも困るんだよね。預かったものを取りに来る人がいなくなる」
「……返せません」
「今はね」
店主は帳簿を指で叩いた。
「ここで働けばいい。目と手足は私が貸してあげる。感覚まではあげられないけど、仕事ができる程度にはね。期限までに返せなかったら働いて買い戻せばいい」
「働く」
「その代わり、全部戻るまでここからは出られない」
あの子は戸の方を見た。
外ではまだ雨が降っていた。
「それと」
店主は少しだけ声を落とした。
「働く以上、ここで見ることや聞くことは忘れられないよ。客のことも店のことも。忘れられるのは、ここに来るまでのことだけ」
「それでいいです」
「本当に?」
「はい」
「あとで知りたくなっても誰も教えないよ。買い戻すまでは」
あの子は頷いた。
「教えないでください」
店主はそれ以上何も聞かなかった。
あの子は帳簿に指を押した。
一つ。二つ。三つ。
全部で七つ。
押し終わったあと、あの子はカウンターの上の封筒を見た。分厚い封筒だった。
自分ではもう病院まで持っていけない。
あの子は私を見た。
「これを届けてもらえますか」
場所は言わなかった。言わなくても私は知っていた。
「……いいよ」
私が封筒を受け取ると、あの子は少しだけ頭を下げた。
それがあの子が私に向けた最後のお礼だった。少なくとも、あの子が覚えている中では。
「一度だけ外に出てもらうよ」
店主が言った。
「戸をまたいで戻ってくるだけ。そうしないと始まらないから」
あの子は立ち上がった。
まだ自分の脚で。
戸の前まで歩く。
私は封筒を鞄にしまって、あの子の横に立った。
あの子は一度だけ店の中を振り返った。
それから戸をまたいだ。
雨の音が大きくなった。
あの子の身体が、糸が切れたみたいに崩れた。
私は腕をつかんだ。重かった。力の抜けた人間はこんなに重いのかと思った。
あの子の目は開いていた。
でも何も見ていなかった。
雨が顔に当たってもまばたきもしない。
唇だけが少し動いた。
何か言おうとしていた。
名前のようにも聞こえた。
それが誰の名前なのか、私は知っていた。
あの子はもう知らなかった。
私はあの子を引きずるようにして戸の内側へ戻した。
店主がしゃがんで、あの子の肩に手を置いた。
それだけだった。
あの子の指がぴくりと動いた。
目に少しずつ光が戻っていく。
「……あとは任せていいよ」
店主が言った。
「君は行きなさい。それを届けて」
私は鞄を押さえた。
「目が覚めたら、私のこと」
「知らないよ」
店主は言った。
「この子にとって、君は今日会わなかった人だ。しばらくは顔を出さない方がいい」
私は床に横たわったままのあの子を見た。
まだ焦点の合わない目が天井を見ている。
もうすぐこの子は目を覚ます。
知らない店で知らない男に名前を聞かれて、自分の名前だけを答える。
ここがどこなのかも、どうしてここにいるのかも分からないまま。
私は戸を開けた。
雨はまだ降っていた。
鞄の中の封筒がやけに重かった。
振り返らずに歩き出す。
病院までは歩いて二十分。
あの子が自分の脚で歩いてきた道を、私は一人で戻った。




