32話 報告
レイが店に戻ってきたのは、夜の十時を過ぎた頃だった。
閉店の札はとうに掛かっている。戸を開けると、カウンターの奥で店主が一人、帳簿を広げていた。灯りは一つだけ点いている。
「忘れ物?」
店主が顔を上げずに聞いた。
「違う」
レイは戸を閉め、丸椅子には座らずにカウンターにもたれた。
「寝てる?」
「寝てるよ。奥で」
レイは奥の戸を見た。中から音はしない。
「聞かれたよ、今日」
「何を?」
「連れてきたのは私かって」
店主はようやくペンを置いた。
「答えたの?」
「答えるわけないでしょ」
「だよね」
「練習のときの台詞で返した。『教えません』って」
店主が小さく笑った。
「君が教えた練習で、君がはぐらかしたんだ」
「笑いごとじゃないんだけど」
レイは鞄をカウンターに置いた。
「宗教の話もさ。たまたま聞いたとか、調べたら分かったとか。あれ、結構疲れた」
「上手だったよ」
「褒めてないでしょ」
「褒めてるよ。キョウは全部信じてた」
レイは黙った。
信じていた。
あの子はいつもそうだ。聞かれたら答えるし、言われたら信じる。
「事故のことまで言う必要あった?」
店主が聞いた。
「三年前って、わざわざ」
「……反応を見たかっただけ」
「どうだった?」
「残ってたよ。たぶん」
レイは奥の戸から目を離した。
「この前、寝言言ってた」
「聞こえてた」
「やっぱり」
「起きてよ、でしょ」
レイは答えなかった。
あの日、ベッドの横で聞いた声を思い出す。感覚のない手が、何かを握るように曲がっていた。
「記憶がなくても、手は覚えてるのかな」
「手は覚えてないよ。あれは私が貸してるだけだから」
店主はあっさり言った。
「覚えてるのは、もっと別のところだろうね」
レイは少しの間、何も言わなかった。
「教えちゃ駄目なんだよね」
「駄目だよ」
「分かってる」
「約束だからね」
店主の声はいつもと変わらなかった。
「あの子が自分で決めたことだよ。全部忘れたい、何も教えないでくれって。思い出したいなら、買い戻せばいい。それが契約」
「契約、契約って」
「君だってそれで納得したでしょ」
レイは言い返さなかった。
納得したかどうかは、自分でもよく分からない。
ただ、あの日のキョウの顔は覚えている。この店の戸の前で、もうこれ以上何も持っていたくないと言った顔。
「私が連れてこなきゃよかった?」
ぽつりと言った。
店主は少しだけ考えた。
「君が連れてこなかったら、あの子は別の場所で、別のものを売ってたよ」
「別のものって」
「もっと取り返しのつかないもの」
レイは何も言えなかった。
店主はペンを取り直して、帳簿に何かを書き込んだ。
「それより、心配なのは向こうの方じゃない?」
「団体?」
「この前来た三人。店員の名札、見てたでしょ」
レイの顔が少し強張った。
「……見てた」
「何も起きなきゃいいけどね」
店主は他人事のように言った。
レイは奥の戸をもう一度見た。
この戸の向こうで、何も知らずに眠っている。
外で何が動き始めても、あの子にはそれを知る方法がない。
《同じ頃》
病室の灯りは、廊下のものより少しだけ暗かった。
ベッドの上の男は、目を開けたまま天井を見ていた。
「遅くなりました」
俺はベッドの横の椅子に座り、あの店について分かったことを順に伝えた。
何を預かれるのか。箱のこと。扱えるのは店主だけだということ。
男は黙って聞いていた。
「それと、店員が一人います」
男の目が、少しだけこちらに動いた。
「若い男です。名札には、カタカナで」
俺は手元のメモを見た。
「キョウ、と」
病室が静かになった。
点滴の落ちる音だけが聞こえる。
男はしばらく何も言わなかった。
それから、天井に目を戻した。
「……そうか」
それだけだった。
俺は次の言葉を待った。
男は、もう何も言わなかった。




