31話 何が欠けている
閉店の札を掛けたあとも、レイは帰らなかった。
いつもなら夕方には「じゃあね」と言って出ていく。今日は丸椅子に座ったまま、スマートフォンも出さずに、カウンターの上で指を動かしていた。
店主は奥に引っ込んでいた。何をしているのかは分からない。
キョウは帳簿を閉じた。
「帰らないんですか」
「帰るよ」
「いつ」
「そのうち」
答えになっていなかった。
キョウはしばらく帳簿の表紙を見ていた。
昨日から、ずっと頭に残っている言葉があった。
君には、何かが欠けている気がする。
絵を描いた男は、軽い調子で言った。才能のせいだと笑っていた。でも、あの言葉だけは、一晩経っても抜けなかった。
「レイさん」
「何?」
「僕って、何か欠けてると思いますか」
レイがこちらを見た。
「目と腕と脚と記憶」
即答だった。
「そういうことじゃなくて」
「じゃあ何?」
「昨日の人も言ってたじゃないですか。顔とか手が足りないって意味じゃないって」
キョウは自分の手を見た。
「手足と目は店主に借りてるし、記憶がないのも分かってます。そういう、分かってるものじゃなくて」
うまく言葉にならなかった。
「人から見て、何か足りないように見えるのかなって」
レイはすぐには答えなかった。
いつもなら、適当に茶化して終わる。今日は少しだけ、キョウの顔を見ていた。
「欠けてるっていうか」
レイが言った。
「たまに、誰かを待ってるみたいな顔してるよ」
「待ってる?」
「戸が開いたとき、一瞬だけ。客かなって顔じゃなくて、もっと別の」
キョウは黙った。
自分では、そんな顔をしているつもりはなかった。
「誰を待ってるんですか、僕」
「知らないよ。キョウが知らないのに」
レイは頬杖をついた。
「でも、待つってことは、存在した人なんじゃない?」
キョウは戸を見た。
今は閉まっている。外の音が、かすかに聞こえるだけだ。
「僕、自分で預けたんですよね。記憶」
「そうなんじゃない?」
「大切な記憶って、店主は言ってました。大切なのに、自分で手放したんです」
「うん」
「何でだと思います?」
レイは少しだけ考えた。
「高く売れるからじゃない?」
「……それだけですか」
「この店に来る人、だいたいそれでしょ」
身も蓋もなかった。
でも、たぶんそうなのだ。目も、腕も、脚も、全部売った。それでも足りなかったから、最後に一番高いものを出した。前に店主もそう言っていた。一番高いのは記憶だと。
「それか」
レイが続けた。
「覚えてるのが、つらかったか」
キョウは顔を上げた。
レイは戸の方を見ていた。
「どっちだと思います?」
「どっちでもいいんじゃない」
「よくないですよ」
「だって、どっちだったとしても、もうないんだし」
それは、そうだった。
欠けているものが何なのか分からない。分からないのに、欠けていることだけは、人から見ても分かるらしい。
「レイさんは」
「何?」
「何も預けたことないって、前に言ってましたよね」
レイの指が止まった。
「言ったね」
「本当ですか」
「本当」
「一度も?」
「一度も」
「何でですか。この店のこと、ずっと前から知ってたんですよね。いらないと思ったもの、一つもなかったんですか」
レイは少しだけ笑った。
「なかったよ」
「一つも?」
「私、なくしたら困るものしか持ってないから」
さらっと言った。
冗談なのか本気なのか、キョウには分からなかった。
「それ、すごいですね」
「すごくはないよ。持ってるものが少ないだけ」
レイは椅子の上で足を組んだ。
「キョウは多すぎたんじゃない? 色々持ってたから、色々売れたんだよ」
「慰めてます?」
「どうだろ」
しばらく、二人とも何も言わなかった。
店の外を、誰かの自転車が通り過ぎる音がした。
「外、最近どうですか」
キョウが聞いた。
前にも聞いたことがある。そのときレイは「別に大したことじゃない」と言った。
今日は少し違った。
「寒くなってきたよ」
レイは戸の方を見た。
「朝はもう上着いる。駅前の木、黄色くなり始めてる。焼き芋の車も出てた。まだ早いと思うけど」
「焼き芋」
「食べたい?」
「別に」
「買ってこようか」
「余ったら、でいいです」
レイが小さく笑った。
「覚えたね、それ」
キョウも少しだけ笑った。
駅前の木が黄色くなる。
ここに来たとき、外は何色だったのだろう。それも覚えていない。
「レイさん」
「うん」
「前から聞きたかったんですけど」
レイがこちらを見た。
キョウは少し迷ってから言った。
「僕をこの店に連れてきたの、レイさんですか」
店の中が、静かになった。
奥で何か音がしていたのに、それも止まった気がした。
レイはすぐには答えなかった。
「それ」
少しして、口を開く。
「前にやった練習のやつ?」
「練習?」
「聞かれても余計なこと答えない練習」
キョウは黙った。
レイは笑っていた。いつもの、何を考えているのか分からない顔だった。
レイは丸椅子から立ち上がった。
鞄を肩に掛ける。
キョウはそれ以上聞かなかった。
聞いても、答えは返ってこない。それくらいは、もう分かっていた。
戸の前まで行ったところで、レイが振り返った。
「ねえ」
「はい」
「全部取り戻したら、まず何したい?」
キョウは少し考えた。
前なら、外を歩きたいと答えたと思う。駅前まで行って、黄色くなった木を見たい。
でも今は、別のことが浮かんだ。
「自分に何が欠けてるのか、確かめたいです」
レイは少しだけ目を細めた。
「もし」
声がいつもより低かった。
「思い出したら、知らない方がよかったって思うことだったら?」
「それでも」
キョウは迷わなかった。
「知らないまま、ここで箱を眺めてるよりはいいです」
レイはしばらくキョウを見ていた。
それから、何か言いかけた。
口が少しだけ開いて、閉じる。
「キョウ、この前さ」
「はい」
「……やっぱりいい」
「何ですか」
「何でもない」
レイは戸を開けた。
冷たい空気が、少しだけ店の中に入ってきた。外は本当に寒くなっているらしかった。
「焼き芋、余ったらね」
「はい」
戸が閉まった。
キョウは閉まった戸を見ていた。
レイは何を言おうとしたのだろう。
いつものレイなら、言いかけてやめるようなことはしない。言いたいことは言うし、言いたくないことは最初から言わない。
あの人が迷うようなことを、自分はまだ何も知らない。
誰かを待っているみたいな顔。
レイはそう言った。
キョウは戸から目を離そうとして、やめた。
今、自分はどんな顔をしているのだろう。
奥の戸が少しだけ開いて、店主の声がした。
「レイ、帰った?」
「帰りました」
「そう」
それだけ言って、戸はまた閉まった。
聞いていたのかもしれない。
聞いていなかったのかもしれない。
この店では、それがいつも分からなかった。




