30話 欠けた存在
その男が店に来たのは、絵の才能を買っていってから一か月ほど経った頃だった。
「音楽系、入った?」
戸を開けるなり、前と同じことを言う。上等なコートも前と同じだった。
「予約は受け付けてないって言ったよね」
店主が帳簿から顔を上げる。
「予約じゃない。覗きに来ただけ」
男は棚を一通り眺めて、何も見つけられなかったらしく、カウンターの前の椅子に座った。それから脇に抱えていたスケッチブックを置いた。
「今日は見せに来たんだよ。一応、報告」
隣の丸椅子にいたレイが身を乗り出した。
「描けるようになった?」
「なったっていうか、分かるようになった」
男はスケッチブックを開いた。
最初の数ページは、同じ花瓶のデッサンだった。日付が書いてある。才能を買う前のもの。キョウには上手いのか下手なのかよく分からなかったが、線が多く、どこか迷っているように見えた。
ページをめくる。
同じ花瓶だった。でも、まるで違った。
線が少ない。少ないのに、花瓶の重さも、光の当たり方も、置かれた机の硬さまで分かる。
「買った次の日に描いたやつ」
男が言った。
「手は前と同じなんだよ。描けるものも、技術も変わってない。ただ、どこを描いてどこを描かなくていいか、見た瞬間に分かる。前は一時間悩んでたところで悩まなくなった」
「すごいですね」
キョウが言うと、男は少しだけ笑った。
「すごいのは前の持ち主だよ。俺は借りてるだけ」
借りている。
キョウは自分の腕を見た。
「それで、今日はもう一つ頼みがあって」
男はスケッチブックの白いページを開いた。
「人を描かせてくれない? 花瓶とか建物は描けるようになったけど、人はまだあんまり試してないんだ」
「私はいいよ」
レイがすぐに言った。
「レイは前に描いた」
「え、いつ?」
「勝手に」
「見せてよ」
「やだよ。怒るから」
レイが文句を言う前に、男は店主の方を見た。
「あんたは?」
「私?」
「一番面白そうだから」
店主は少し考えるような顔をして、それから肩をすくめた。
「どうぞ」
男は鉛筆を持った。
店主はいつもの椅子に座ったまま、特に姿勢も変えない。
最初の数分、鉛筆はよく動いていた。
それから止まった。
男は紙を見て、店主を見て、また紙を見た。消しゴムを使う。もう一度描く。また止まる。
「……あれ」
ページをめくって、最初から描き直す。
キョウは横から覗いた。
一枚目の店主は、三十代くらいに見えた。
二枚目は、もっと若い。二十代の前半かもしれない。
三枚目を描き始めたところで、男は鉛筆を置いた。
描きかけの顔は、どこか年を取って見えた。
「駄目だ」
男は息を吐いた。
「描くたびに違う顔になる。見てるのは同じなのに、どこを切り取ればいいのか全然定まらない」
「腕が落ちたんじゃない?」
店主が笑った。
「花瓶は描けるんだよ」
男は三枚の絵を見比べて、首を振った。
「あんたは描きにくい。前からそう思ってたけど」
「よく言われる」
「誰に?」
店主は答えなかった。
男は諦めたようにページをめくり、キョウを見た。
「じゃあ、君」
「僕ですか」
「店員さんなら描けそうだし」
断る理由も思いつかず、キョウは帳簿を閉じた。
「普通に座ってればいい。動かなくていいから」
男が鉛筆を走らせ始める。
描かれるのは初めてだった。少なくとも、覚えている限りでは。
視線が顔の上をなぞっていくのが分かる。目、鼻、口、輪郭。それから肩、腕。
店主のときと違って、鉛筆は止まらなかった。
二十分ほどで、男は手を止めた。
しばらく黙って絵を見ていた。
「……できた」
そう言って、スケッチブックをキョウの方へ向けた。
カウンターに座っているキョウだった。
よく似ていた。自分の顔をちゃんと見たことはあまりないのに、それでも自分だと分かった。少し疲れた目も、膝の上に置いた手の形も。
ただ。
キョウは絵の右側を見た。
自分が座っているのは、紙の左寄りだった。右側には、何も描かれていない。カウンターも、棚も、壁も途中で途切れて、その部分だけが白いまま残っている。
不自然な空白だった。
まるで、そこにもう一人いるはずだったように。
「……右、何も描いてないですね」
「うん」
男も空白を見ていた。
「描こうとしたんだよ。棚とか、壁とか。でも、どれを置いても違う気がした」
「違う?」
「絵として収まらないんだ。ここは何かで埋めるんじゃなくて、空けておかないといけない気がした」
男は少し困ったように笑った。
「変なこと言ってるのは分かってる。花瓶を描くときはこんなことなかった」
レイが絵を見ていた。
いつもなら何か茶化すはずなのに、黙っていた。
「どうして空けたんですか」
キョウが聞くと、男はしばらく考えた。
鉛筆の先で、白い部分を軽く指す。
「君には、何かが欠けている気がするから」
店の中が静かになった。
「顔とか手が足りないって意味じゃないよ。ちゃんと描けてる。でも、君を一人で描くと絵が傾くんだ。隣に誰かいて、初めて釣り合う人に見える」
男は肩をすくめた。
「買った才能のせいだと思うけどね。前の持ち主なら、ここに何を描いたんだろう」
キョウは答えられなかった。
膝の上の手を見る。
感覚のない手は、何も握っていない。
それなのに、なぜか、何かを離したあとのように思えた。
「それ、あげるよ」
男がスケッチブックからページを切り取った。
「練習台になってくれたお礼」
「いいんですか」
「人を描けるのは分かったし。店主以外はね」
男は立ち上がり、コートを整えた。
「次は本当に音楽系、頼むよ」
「予約は受け付けてない」
「じゃあ、また覗きに来る」
男は戸を開けて、出ていった。
キョウは渡された絵をカウンターに置いた。
自分の顔より先に、右側の白い部分に目がいく。
「いい絵だね」
いつの間にか、店主が後ろに立っていた。
絵を見下ろしている。
「ちゃんと描けてる」
それだけ言って、奥へ戻っていった。
右側の空白には、何も言わなかった。
キョウはレイを見た。
「……レイさん、何か分かります?」
レイは少しだけ間を置いた。
「分かんない」
それから丸椅子から立ち上がり、絵を一度だけ見て、戸の方へ歩いた。
「似てるよ、それ」
それだけ言って、外へ出ていった。
キョウは一人で絵を見ていた。
棚の一番奥には、七つの箱がある。
その中の一つに、何が入っているのかを知らない。
ただ、絵の右側の空白を見ていると、そこに置くべきものを、自分はずっと前から知っていたような気がした。
キョウは絵を二つに折って、帳簿の間に挟んだ。
閉じる前に、もう一度だけ空白を見た。




