↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
29/53

29話 休み

戸を開けると、カウンターにキョウがいなかった。


「ただいまー」


「おかえり」


答えたのは店主だけだった。いつもの帳簿を広げて、いつもの場所に座っている。キョウの丸椅子だけが空いていた。


「キョウは?」


「休み」


「休み?」


「今日は休ませた」


私は空の椅子を見る。


この店に来るようになってから、キョウがいない日は一度もなかった。当たり前だ。いないわけがない。外に出られないのだから。


「どこにいるの」


「奥」


店主は帳簿から顔も上げずに、カウンターの後ろの戸を顎で指した。


私はその戸を開けた。


奥には、思っていたよりずっと狭い部屋があった。窓はない。棚が一つと、古いベッドが一つ。それだけ。


キョウはそのベッドで寝ていた。


仰向けで、腕を毛布の上に出したまま。寝息は静かだった。


私はしばらく戸の前に立っていた。


休みと言っても、ここなんだ。


当たり前のことなのに、なぜか少しだけ変な気分になった。


戸を閉めて、カウンターに戻る。


「何で休ませたの」


「最近、顔色悪かったから」


「店主がそういうの気にするんだ」


「店員が倒れたら困るでしょ」


それはそうだ。


私はキョウの丸椅子に座った。


「で、今日は誰が接客するの」


店主がようやく顔を上げた。


にこりと笑う。


嫌な予感がした。


「君」


「やだ」


「今日の店員は君だよ」


「私、外の担当なんだけど」


「たまには中もやってみたら?」


「キョウにも同じこと言った?」


「言ってない。あの子は中しかできないから」


言い返そうとしたところで、戸が開いた。


最初の客は、六十代くらいの男だった。手には古い腕時計を持っている。


「これで、いくらか貸してもらえますか」


普通の客だ。


私は時計を受け取って、裏返した。表に戻した。もう一度裏返した。


分からない。


店主を見る。


店主は新聞を広げていた。いつの間に出したのか分からない。


「店主」


「何?」


「これ、いくら?」


「今日の店員は君でしょ」


男が不安そうに私と店主を交互に見た。


私は時計をもう一度見て、男を見た。


「おじさん、これいくらなら嬉しい?」


「……三万くらい貸してもらえたら」


「じゃあ三万」


新聞の向こうで、店主が小さく咳をした。


たぶん笑っている。


男は嬉しそうに帰っていった。


「高すぎ」


戸が閉まったあと、店主が言った。


「じゃあ最初から教えてよ」


「勉強になったでしょ」


「何も分かってない」


二人目の客が来たのは昼前だった。


二十代半ばくらいの女。手ぶらで、店に入ってすぐに奥の棚を見た。それから、カウンターに座っている私を見て、少し戸惑った顔をした。


「あの……ここ、気持ちとかも預かってもらえるって」


こっちの客か。


私は頬杖をついた。


「何を?」


「期待するのを、やめたくて」


女は椅子に座ると、膝の上で両手を握った。


就職活動で、三十社以上落ちたらしい。去年は何とか入った会社を、半年で辞めた。付き合っていた人には、結婚の話が出たあとに別れを切り出された。


「毎回、今度こそって思うんです。面接がうまくいった気がしたら、受かるかもって思う。告白されたら、この人は大丈夫かもって思う。でも、毎回だめで」


「うん」


「期待しなければ、がっかりしなくて済むじゃないですか」


分かりやすい人だ、と思った。


前に喫茶店で見かけた、振られた写真を何度も見ていた女に少し似ている。あのときは噂を置かなかった。放っておいても勝手に薄れると思ったから。


この人は違う。


もう三十回以上、同じことを繰り返している。


「キョウなら、ここで止めたがるんだろうね」


思わず口に出た。


「え?」


「ううん、こっちの話」


私は女を見た。


「期待しなくなったら、どうなると思う?」


「楽になると思います」


「たぶんなるよ」


女が少し驚いた顔をした。止められると思っていたのかもしれない。


「でもね、面接も行かなくなると思う」


「……どうしてですか」


「だって、受かると思わないんでしょ。受かると思わない面接に、わざわざスーツ着て行く?」


女は黙った。


「告白されても、どうせだめだと思うから断る。誘われても行かない。がっかりはしなくなるけど、何も起きなくなる」


私は笑った。


「それでいいなら、いいと思う。本当に」


本気でそう思っていた。


何も起きない人生が好きな人だっている。それはそれで、悪くない。


女はしばらく膝の上の手を見ていた。


「……よく分からなくなってきました」


「じゃあ、試してみれば?」


「試す?」


「三か月だけ預けるの。三か月期待しない生活してみて、それでよかったら、そのまま流せばいい。嫌だったら、取りに来ればいい」


新聞の向こうで、紙をめくる音が止まった。


女は少し考えてから頷いた。


「じゃあ、それで」


「店主、出番」


店主が新聞を畳んだ。


契約の間、店主は何も言わなかった。ただ一度だけ、私の方を見た。


女が帰ったあと、店主が言った。


「買取なら、もっと高く入ったのに」


「知ってる」


「わざと?」


「三か月後にどっちを選ぶか見たいだけ」


「面白い方を選んだんだね」


「そう」


店主は笑った。


「君、キョウに似てきたんじゃない?」


「一緒にしないで」


昼を過ぎて、お腹が空いた。


来る途中で弁当を二つ買っていた。一つは自分の分で、もう一つは。


迷ったから二つ買った。それだけ。


私は袋を持って、奥の戸を開けた。


キョウはまだ寝ていた。


起こそうと思って、ベッドの横まで行ったときだった。


「……起きてよ」


キョウの口が動いた。


寝言だった。


私は足を止めた。


毛布の上に出ていたキョウの右手が、少しだけ動いた。指が曲がって、何かを握るような形になる。


そこには何もない。


それに、あの手には感覚がない。


握っても、握ったことが分からないはずの手だった。


「……起きて」


もう一度。


かすれた、小さな声だった。


私は弁当の袋を棚の上に置いた。


それから、起こさずに戸を閉めた。


キョウが起きてきたのは、夕方だった。


髪に寝癖がついている。


「すみません、ずっと寝てました」


「休みなんでしょ」


「そうですけど」


キョウは自分の丸椅子に私が座っているのを見て、少しだけ困った顔をした。私は立たなかった。


「弁当、ありがとうございました。棚の上にあったの」


「余ったから」


「二つ買ったんですか」


「迷ったの」


「またですか」


キョウは帳簿を開いて、今日の客を見た。


時計で三万円。


「……高くないですか」


「店主にも言われた」


次の行で、キョウの指が止まった。


「期待、預かり」


「うん」


「三か月の。レイさんが勧めたんですか」


「勧めてないよ。試してみればって言っただけ」


「それを勧めたって言うんです」


キョウは少しだけ笑った。


それから、思い出したように聞いた。


「あの、僕、寝てるとき何か言ってませんでした?」


私はキョウを見た。


キョウは本当に、何も覚えていない顔をしていた。


「何で?」


「なんか、夢を見てた気がして。内容は覚えてないんですけど」


全部答える義務なんてない。


前に、キョウにそう言ったのは私だ。


「言ってないよ」


「そうですか」


キョウはそれ以上聞かなかった。


帳簿に目を戻して、今日の分の整理を始める。


店主は奥で、何も言わずに箱を並べていた。


聞こえていたのかもしれない。


聞こえていなかったのかもしれない。


私は丸椅子をキョウに返して、戸の方へ歩いた。


「帰るんですか」


「うん。明日は外」


「中、もうやらないんですか」


「向いてない」


「時計三万でしたもんね」


「うるさい」


戸を開ける。


外はもう暗くなり始めていた。


起きてよ。


あの声が、まだ耳に残っていた。


誰に言ったかを私は知っている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。