29話 休み
戸を開けると、カウンターにキョウがいなかった。
「ただいまー」
「おかえり」
答えたのは店主だけだった。いつもの帳簿を広げて、いつもの場所に座っている。キョウの丸椅子だけが空いていた。
「キョウは?」
「休み」
「休み?」
「今日は休ませた」
私は空の椅子を見る。
この店に来るようになってから、キョウがいない日は一度もなかった。当たり前だ。いないわけがない。外に出られないのだから。
「どこにいるの」
「奥」
店主は帳簿から顔も上げずに、カウンターの後ろの戸を顎で指した。
私はその戸を開けた。
奥には、思っていたよりずっと狭い部屋があった。窓はない。棚が一つと、古いベッドが一つ。それだけ。
キョウはそのベッドで寝ていた。
仰向けで、腕を毛布の上に出したまま。寝息は静かだった。
私はしばらく戸の前に立っていた。
休みと言っても、ここなんだ。
当たり前のことなのに、なぜか少しだけ変な気分になった。
戸を閉めて、カウンターに戻る。
「何で休ませたの」
「最近、顔色悪かったから」
「店主がそういうの気にするんだ」
「店員が倒れたら困るでしょ」
それはそうだ。
私はキョウの丸椅子に座った。
「で、今日は誰が接客するの」
店主がようやく顔を上げた。
にこりと笑う。
嫌な予感がした。
「君」
「やだ」
「今日の店員は君だよ」
「私、外の担当なんだけど」
「たまには中もやってみたら?」
「キョウにも同じこと言った?」
「言ってない。あの子は中しかできないから」
言い返そうとしたところで、戸が開いた。
最初の客は、六十代くらいの男だった。手には古い腕時計を持っている。
「これで、いくらか貸してもらえますか」
普通の客だ。
私は時計を受け取って、裏返した。表に戻した。もう一度裏返した。
分からない。
店主を見る。
店主は新聞を広げていた。いつの間に出したのか分からない。
「店主」
「何?」
「これ、いくら?」
「今日の店員は君でしょ」
男が不安そうに私と店主を交互に見た。
私は時計をもう一度見て、男を見た。
「おじさん、これいくらなら嬉しい?」
「……三万くらい貸してもらえたら」
「じゃあ三万」
新聞の向こうで、店主が小さく咳をした。
たぶん笑っている。
男は嬉しそうに帰っていった。
「高すぎ」
戸が閉まったあと、店主が言った。
「じゃあ最初から教えてよ」
「勉強になったでしょ」
「何も分かってない」
二人目の客が来たのは昼前だった。
二十代半ばくらいの女。手ぶらで、店に入ってすぐに奥の棚を見た。それから、カウンターに座っている私を見て、少し戸惑った顔をした。
「あの……ここ、気持ちとかも預かってもらえるって」
こっちの客か。
私は頬杖をついた。
「何を?」
「期待するのを、やめたくて」
女は椅子に座ると、膝の上で両手を握った。
就職活動で、三十社以上落ちたらしい。去年は何とか入った会社を、半年で辞めた。付き合っていた人には、結婚の話が出たあとに別れを切り出された。
「毎回、今度こそって思うんです。面接がうまくいった気がしたら、受かるかもって思う。告白されたら、この人は大丈夫かもって思う。でも、毎回だめで」
「うん」
「期待しなければ、がっかりしなくて済むじゃないですか」
分かりやすい人だ、と思った。
前に喫茶店で見かけた、振られた写真を何度も見ていた女に少し似ている。あのときは噂を置かなかった。放っておいても勝手に薄れると思ったから。
この人は違う。
もう三十回以上、同じことを繰り返している。
「キョウなら、ここで止めたがるんだろうね」
思わず口に出た。
「え?」
「ううん、こっちの話」
私は女を見た。
「期待しなくなったら、どうなると思う?」
「楽になると思います」
「たぶんなるよ」
女が少し驚いた顔をした。止められると思っていたのかもしれない。
「でもね、面接も行かなくなると思う」
「……どうしてですか」
「だって、受かると思わないんでしょ。受かると思わない面接に、わざわざスーツ着て行く?」
女は黙った。
「告白されても、どうせだめだと思うから断る。誘われても行かない。がっかりはしなくなるけど、何も起きなくなる」
私は笑った。
「それでいいなら、いいと思う。本当に」
本気でそう思っていた。
何も起きない人生が好きな人だっている。それはそれで、悪くない。
女はしばらく膝の上の手を見ていた。
「……よく分からなくなってきました」
「じゃあ、試してみれば?」
「試す?」
「三か月だけ預けるの。三か月期待しない生活してみて、それでよかったら、そのまま流せばいい。嫌だったら、取りに来ればいい」
新聞の向こうで、紙をめくる音が止まった。
女は少し考えてから頷いた。
「じゃあ、それで」
「店主、出番」
店主が新聞を畳んだ。
契約の間、店主は何も言わなかった。ただ一度だけ、私の方を見た。
女が帰ったあと、店主が言った。
「買取なら、もっと高く入ったのに」
「知ってる」
「わざと?」
「三か月後にどっちを選ぶか見たいだけ」
「面白い方を選んだんだね」
「そう」
店主は笑った。
「君、キョウに似てきたんじゃない?」
「一緒にしないで」
昼を過ぎて、お腹が空いた。
来る途中で弁当を二つ買っていた。一つは自分の分で、もう一つは。
迷ったから二つ買った。それだけ。
私は袋を持って、奥の戸を開けた。
キョウはまだ寝ていた。
起こそうと思って、ベッドの横まで行ったときだった。
「……起きてよ」
キョウの口が動いた。
寝言だった。
私は足を止めた。
毛布の上に出ていたキョウの右手が、少しだけ動いた。指が曲がって、何かを握るような形になる。
そこには何もない。
それに、あの手には感覚がない。
握っても、握ったことが分からないはずの手だった。
「……起きて」
もう一度。
かすれた、小さな声だった。
私は弁当の袋を棚の上に置いた。
それから、起こさずに戸を閉めた。
キョウが起きてきたのは、夕方だった。
髪に寝癖がついている。
「すみません、ずっと寝てました」
「休みなんでしょ」
「そうですけど」
キョウは自分の丸椅子に私が座っているのを見て、少しだけ困った顔をした。私は立たなかった。
「弁当、ありがとうございました。棚の上にあったの」
「余ったから」
「二つ買ったんですか」
「迷ったの」
「またですか」
キョウは帳簿を開いて、今日の客を見た。
時計で三万円。
「……高くないですか」
「店主にも言われた」
次の行で、キョウの指が止まった。
「期待、預かり」
「うん」
「三か月の。レイさんが勧めたんですか」
「勧めてないよ。試してみればって言っただけ」
「それを勧めたって言うんです」
キョウは少しだけ笑った。
それから、思い出したように聞いた。
「あの、僕、寝てるとき何か言ってませんでした?」
私はキョウを見た。
キョウは本当に、何も覚えていない顔をしていた。
「何で?」
「なんか、夢を見てた気がして。内容は覚えてないんですけど」
全部答える義務なんてない。
前に、キョウにそう言ったのは私だ。
「言ってないよ」
「そうですか」
キョウはそれ以上聞かなかった。
帳簿に目を戻して、今日の分の整理を始める。
店主は奥で、何も言わずに箱を並べていた。
聞こえていたのかもしれない。
聞こえていなかったのかもしれない。
私は丸椅子をキョウに返して、戸の方へ歩いた。
「帰るんですか」
「うん。明日は外」
「中、もうやらないんですか」
「向いてない」
「時計三万でしたもんね」
「うるさい」
戸を開ける。
外はもう暗くなり始めていた。
起きてよ。
あの声が、まだ耳に残っていた。
誰に言ったかを私は知っている。




