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28話 責任感

午前五時に目覚ましが鳴る。


止める前に起き上がって、隣の部屋へ行く。カーテンを少しだけ開けて、ベッドの上の弟の顔を見る。


「おはよう、悠真」


返事はない。十年前から、ずっとない。


体の向きを変える。背中と腰の皮膚を確かめる。赤くなっているところはない。おむつを替えて、管から栄養を入れて、口の中を拭く。それが終わる頃には六時半を過ぎていて、私はようやく自分の朝ご飯を立ったまま食べる。


悠真が倒れたのは、高校二年の冬だった。脳の血管の病気だと言われた。命は助かった。でも目を開けることはあっても、私の顔を見て何かを返すことはもうなかった。


最初の数年は母が看ていた。母が体を壊してからは、私が看ている。


仕事は辞めた。結婚の話もなくなった。友達とは、いつの間にか連絡を取らなくなった。


施設に預ければいい。


ケアマネジャーにも、親戚にも、何度も言われた。


分かっている。


分かっているのに、できなかった。


私が見なきゃいけない。姉なんだから。母に任されたんだから。私が手を離したら、悠真は一人になる。


その考えが、朝五時に私を起こす。夜中に二回、私を起こす。どこへ出かけても、一時間たつと私を家に戻す。


「弟さんのことは、嫌いになりたいわけじゃないんだね」


店主が言った。


「嫌いになんて」


声が少し強くなって、私は口を閉じた。


「嫌いじゃないんです。悠真のことは大事です。ただ、私が全部やらなきゃいけないって、ずっと思ってて。それが、もう……」


カウンターの端で、若い店員が私を見ていた。


「体位交換は、何時間おきですか」


突然そう聞かれて、私は少し驚いた。


「二時間……夜は三時間くらいです」


「お一人で?」


「はい」


「夜中も」


「はい」


店員は何か言いかけて、やめた。代わりに、膝の上で握っていた自分の手を見ていた。


「預けたいのは、弟さんへの責任感だけ?」


店主が聞く。


「はい」


「愛情は残るよ。弟さんを大事に思う気持ちも、思い出も」


「それでいいです」


「ただ、『自分が看なきゃいけない』とは思わなくなる。施設に預けても、何日か会いに行かなくても、たぶん平気になる」


私は少しだけ黙った。


平気になる。


それが怖いのか、嬉しいのか、自分でもよく分からなかった。


「買取でお願いします」


「本当に?」


「戻したら、また同じになるので」


店主はそれ以上聞かなかった。


帳簿に指を押す。


店を出たとき、空がやけに広く見えた。


《その後》


戸が閉まったあと、店主は新しい箱を棚に置いた。


ラベルには女の弟の名前と、その下に小さく『責任感』と書かれている。


キョウはしばらくその箱を見ていた。


「……弟への責任感なんか箱にして、どうするんですか」


「どうって?」


「売るんですよね。買取の品は」


「売らないよ」


店主はあっさり答えた。


「というより、売れない」


「売れない?」


「誰が買うの、あれ」


キョウは答えに詰まった。


「才能とか、嫉妬とかなら分かるよ。誰の中に入っても同じように働くからね。でも、あの人の責任感は『悠真くん』に向いてる。会ったこともない人の中に入れても、向く相手がいない」


店主は箱の縁を指でなぞった。


「宛先のない手紙みたいなものだよ。誰に渡しても、読めない」


「じゃあ、入れたらどうなるんですか」


「何も起きない。知らない男の子に責任を感じろって言われても、感じようがないでしょ」


キョウは棚を見渡した。


五百万が必要だと言って来た男の、家族への愛情。相談相手のことだけは信じたいと言った女の、一人の男への疑念。


どれも、名前のついた箱だった。


「あれも、全部売れないんですか」


「そうだね。誰かに向いてる気持ちは、その誰かを知ってる人の中でしか動かないから」


「じゃあ、何のために買うんですか」


店主は少し笑った。


「売れないものほど、持ち主は高く買い戻しに来るんだよ。ほかに欲しがる人がいないから、値段はこっちで決められる」


「……性格悪いですね」


「商売だからね」


店主はそこで一度言葉を切った。


「それに、売るだけが使い道じゃない」


キョウは店主を見た。


「どういう意味ですか」


「さあね」


いつもの答えだった。


キョウはそれ以上聞かなかった。代わりに、棚の一番奥へ目をやる。


七つの箱。


その中の一つ。


「僕の記憶も、そうなんですか」


店主は、少しだけ間を置いた。


「君の大切な記憶だからね」


それ以上は言わなかった。


誰かに向いていたのかもしれない。誰か、キョウの知らない誰かに。


だとしたら、あの箱は、自分以外の誰にとってもただの箱だ。


キョウは帳簿に目を戻した。


体位交換は二時間おき。夜は三時間。


女に聞いたとき、なぜ自分はあんなことを知っていたのだろう。


知っているだけではなかった気がする。


夜中に誰かの体を起こして、向きを変えて、背中に手を当てる。その重さを、腕が覚えているような気がした。


感覚のない、借り物の腕なのに。


《一か月後》


施設の面会室は、思っていたより明るかった。


悠真が入所して三週間。最初の一週間、私は一度も来なかった。


来なくても、平気だった。


朝はゆっくり起きた。昼に友達とご飯を食べた。夜中に目が覚めることもなかった。十年ぶりに、自分の部屋で朝まで眠った。


これでいいと思った。


施設の人がちゃんと看てくれている。私が行かなくても、悠真は困らない。


二週目のある日、駅前の本屋で、悠真が好きだった漫画の新刊を見つけた。


倒れる前の日まで読んでいたシリーズだった。


気づいたら、レジに並んでいた。


それから施設に電話をして、面会の予約を取っていた。


「来なきゃいけない」とは、思わなかった。


ただ、見せたかった。


ベッドの横に座って、悠真の手を取る。細くなった指は、私の手の中で少しだけ温かい。


「新刊、出てたよ」


表紙を顔の前に持っていく。


悠真の目は開いていた。でも、表紙を見ているのかどうかは分からない。


十年間、ずっと分からなかった。


それでも私は、最初のページを開いて読み始めた。


前は、毎日こうしなきゃと思っていた。話しかけなきゃ、刺激を与えなきゃ、そうしないと悪くなってしまう、私のせいで。


今は違う。


来なくても誰にも責められない。


それでも、ここにいる。


「来てよかった」


声に出してみて、自分で少し驚いた。


ずっと、来なきゃいけないから来ていると思っていた。


違ったのかもしれない。


責任感の下にずっと埋もれていたものが、今になってようやく見えた気がした。


悠真の指が、ほんの少しだけ動いた気がした。


たぶん、気のせいだ。


それでも私は、次の面会の日を決めてから帰った。


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