27話 嫉妬
同期の佐伯が課長補佐に決まったのは、先月の終わりだった。
朝礼で部長が名前を読み上げたとき、俺は誰よりも先に拍手をした。拍手の音が大きすぎないように気をつけて、顔には笑顔を作った。
入社して六年。同じ年に入って、同じ研修を受けて、同じ部署に配属された。最初の一年は俺の方が成績が良かった。それは今でも覚えている。たぶん佐伯は覚えていない。
二年目に抜かれた。
三年目には差が開いた。
それからは、ずっと後ろから見ている。
佐伯は悪い奴じゃない。むしろいい奴だ。飲み会では俺の隣に座ってくれるし、俺が企画で詰まっていると「これ使えば?」と自分の資料を平気で渡してくる。
だから余計に嫌だった。
佐伯が褒められるたびに胸の奥がざらつく。佐伯が笑っているのを見ると、なぜか自分が笑われている気がする。夜、布団に入ってから佐伯のSNSを開き、休日に家族で出かけた写真を見て、閉じて、また開く。
何をやってるんだと思う。
思っても、やめられない。
いちばん嫌なのは、自分がこんな人間だと知ってしまったことだった。
その店の話は、取引先の担当者が雑談のついでに話していた。知り合いの知り合いが行ったらしい。駅の裏に、物じゃないものまで預かる質屋があると。
普段なら笑って聞き流す話だった。
なのに、その日の帰りには駅の裏を歩いていた。
「嫉妬、ね」
店主は帳簿を開きながら言った。
「誰に?」
「同期です」
俺は佐伯のことを話した。話しているうちに、自分でも驚くくらい細かいことまで覚えていると気づいた。佐伯が先に任された案件の名前。部長に褒められた日付。佐伯が昇格の内示を受けた日の、廊下での顔。
カウンターの端にいた若い店員が、黙ってこちらを見ていた。
「その人に何かされたの?」
「何も」
「嫌がらせとか」
「むしろ助けてもらってます」
「なのに嫌い?」
「嫌いじゃないんです」
自分でも、うまく説明できなかった。
「嫌いになれたら楽なんです。あいつが嫌な奴なら、堂々と嫌えばいい。でも、あいつは何も悪くない。悪いのは俺の方なんです」
店主は少しだけ笑った。
「嫉妬を手放したら、その人のことを素直に喜べるようになると思う?」
「そうなりたいんです」
「預かりと買取があるよ」
説明を聞いて、俺は買取を選んだ。三か月で取り戻せると言われても、取り戻したいと思う日が来るとは思えなかった。
「本当にいい?」
店主が聞いた。
「嫉妬がなくなっても、悔しさは残るかもしれないよ」
「十分です」
帳簿に指を押した。
店を出て駅に向かう途中、スマートフォンが震えた。佐伯からのメッセージだった。
『今度の昇格祝い、お前も来てくれるよな?』
いつもなら、その一文を見ただけで胃のあたりが重くなった。
今日は何も起きなかった。
『もちろん』
返信してから、自分の指を見た。
こんなに簡単に打てる言葉だったのか。
昇格祝いの飲み会で、俺は心から佐伯に乾杯した。
「おめでとう」
「お前に言われると嬉しいな」
佐伯は照れたように笑った。俺も笑った。作った笑顔ではなかった。
その夜は久しぶりによく眠れた。
SNSは開かなかった。開く理由が見当たらなかった。
翌週から、仕事が楽になった。
隣の席で佐伯が部長に呼ばれても、気にならない。会議で佐伯の案が通っても、いい案だと思うだけだ。誰が先に何を任されたのか、数えるのをやめた。数える必要がなくなった。
同僚にも言われた。
「最近、なんか穏やかになったな」
穏やか。
悪くない言葉だと思った。
ひと月ほど経った頃、部長から新しい案件の担当を募る話があった。去年までの俺なら、真っ先に手を挙げていた。佐伯より先に、と思って。
今回は挙げなかった。
佐伯が手を挙げて、そのまま決まった。
それでいいと思った。
夜、机の上にある資格の参考書が目に入った。半年前に買ったものだ。佐伯が持っていない資格を取れば、一つくらいは勝てると思って。
付箋は第三章で止まっている。
俺はしばらくその本を眺めて、本棚の一番下にしまった。
勝つ理由がない。
勝たなくても、困らない。
《数週間後》
「来なかったよ、あの人」
レイは丸椅子に座るなりそう言った。
「あの人?」
キョウが帳簿から顔を上げる。
「前に遠出したとき見つけた、電車乗れない人。結局、来なかったでしょ」
「来てないですね」
「たぶん、自分で何とかしたんじゃない?」
レイは特に残念そうでもなかった。
「それより、この前の嫉妬の人。ちょっと見てきた」
キョウは手を止めた。
男は、レイが置いた噂でこの店に来た客だった。宗教団体の件で調べるのをやめてから、レイが久しぶりに見つけた一人だ。
「どうでした?」
「元気だったよ。同期とも仲良くやってるみたい。飲みに行ったりしてた」
「よかったじゃないですか」
「うん。ただ」
レイは頬杖をついた。
「新しい仕事、全部その同期に譲ってるんだって。前は誰より先に手を挙げてたのに。上司にも、最近やる気がないのかって言われてた」
「本人は?」
「気にしてなかった。むしろ楽そうだった」
キョウは帳簿の男の名前を見る。
その横に、買取済み。
嫉妬を手放した男は、同期を素直に祝えるようになった。その代わり、同期を追いかけることもやめた。
キョウは少し考えてから言った。
「……これくらいなら、なんとも思わなくなりました」
レイがこちらを見た。
「へえ」
「誰も死んでないし、家族も壊れてない。本人は満足してて、周りとの関係もむしろ良くなってる」
痛みを売った男のこと。家族への愛情を売った男のこと。それに比べれば、と思ってしまう自分がいた。
「出世しなくなったくらいで、可哀想だとは思えないです」
奥から店主が出てきた。棚に並んだ箱の一つを手に取る。
『嫉妬』
「キョウは、嫉妬って何のためにあると思う?」
「何のためって……ない方がいいものじゃないですか。人を妬んで、自分を嫌いになるだけで」
「半分は正解」
店主は箱の埃を指で払った。
「嫉妬っていうのはね、自分が本当は何を欲しがってるのかを教えてくれる感情なんだよ」
キョウは黙って聞いた。
「どうでもいい相手には嫉妬しない。興味のないものを持ってる人間を見ても、何とも思わない。あの人が同期に嫉妬してたのは、同期が持ってるものを自分も欲しかったからだ。認められたかったし、任されたかったし、勝ちたかった」
「でも、それで苦しんでたんですよ」
「苦しかったから、手を挙げてたんだろう?」
店主は箱を棚に戻した。
「誰より先に手を挙げて、夜中に参考書を開いて。嫉妬は苦しいけど、人を前に進ませる燃料にもなる。燃料を抜いた車は事故も起こさないけど、どこにも行かない」
「……本人は、それでいいって思ってるかもしれません」
「思ってるだろうね」
店主はあっさり認めた。
「それが一番よくできてるところだよ。嫉妬と一緒に、欲しかったものまで分からなくなる。だから失ったことにも気づかない」
レイが小さく笑った。
「何年かして、同期がずっと上に行ったとき、何か思うのかな」
「何も思わないんじゃない?」
店主が答えた。
「悔しくないんだから」
キョウは棚の箱を見た。
誰も死んでいない。誰も泣いていない。
だから、なんとも思わなかった。
「キョウだって」
店主が言った。
「外に出られるレイを見て、羨ましいと思ったことくらいあるだろう?」
キョウは答えなかった。
レイがこちらを見て、何か言いかけてやめた。
「それがなかったら、君はとっくに働くのをやめてるよ」
店主はそれだけ言って、奥へ戻っていった。
キョウは帳簿に目を戻した。
なんとも思わなくなった。
そう言ったのは、さっきの自分だ。
それが慣れなのか、それとも何かを失くしかけているのか。この店では、その違いがいちばん分かりにくかった。




