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3話 怒り

台所の壁に、拳の形の穴がある。


三つ目だ。一つ目はカレンダーで隠した。二つ目は妻が黙ってポスターを貼った。三つ目は、誰も何もしなかった。


娘は、俺が部屋に入ると先に俺の顔を見る。


俺の様子を窺ってからただいまと言う。八歳の子がすることじゃない。


分かっている。これが普通ではないということも、俺が間違っているということも。


駅裏の質屋の噂は、会社の喫煙所で聞いた。何でも預かるらしい。俺はその日のうちに行った。


「いらっしゃい」


店主は笑っていた。


「怒りを預かってほしい」


自分で言って、変な言葉だと思った。だが店主は驚かなかった。


「怒りね。預かれるけど、高くは出せないよ。安物だから」


「金はいくらでもいい」


奥にいる店員は俺の右手を見ていた。拳の甲の、皮が剥けて固まったところ。


店員は何も言わなかった。ただ、帳簿に何かを書いた。


「預かりでいいね?三か月。返しに来なければ流れる」


「返しには来ない」


俺は帳簿に指を押した。


水を出されたが、俺は飲まなかった。早く外に出たかった。


路地に出ると、熱が消えた。


胸の奥に、何もなかった。俺は胸に手を当てた。こんなにも穏やかな気分なのはいつぶりだろうか。


家に帰る前にもらったお金で二人にお土産を買った。家に着くと娘は俺の顔を見た。笑う俺を見て、娘はまだ驚いた顔でおかえりと言った。



妻には何があったのか聞かれて、質屋のことを正直に話した。あまり信じていないようだったが、それ以上は何も聞かれなかった。経緯はどうであれ、DVが無くなるならそれでよかったのだろう。



娘が俺の顔色を窺わなくなるまでに、二週間かかった。


妻が笑うようになった。壁の三つ目の穴に、娘が絵を貼った。三人で笑っている絵だった。


夕飯のあと、娘が宿題を持ってくるようになった。俺の隣に座って、分からないところを聞く。以前は妻のところに行っていた。


休みの日に三人で公園に行った。娘が滑り台の上から手を振った。妻がそれを見て笑った。そんな二人を俺は見ていた。


怒りを預ける前、俺はこの二人をちゃんと見れていなかったのかも知れない。


会社で上司に理不尽なことを言われても何も感じなかった。


怒りを感じない人生とはこんなにも楽なのか。




それから二か月後。


娘が、ランドセルを汚して帰ってきた。転んだと娘は言った。


次の週は、上履きが片方なくなっていた。その次の週は、筆箱の中身が全部折られていた。


娘は何も言わなかった。妻が聞き出した。クラスの男子三人。名前も分かった。


妻に連れられて俺は担任に会いに行った。担任は「子ども同士のことですので」と言った。俺は「そうですか」と言った。


加害者の親にも会った。父親は笑って「うちの子はそんなことしませんよ」と言った。俺は「そうですか」と言った。



帰り道、妻は黙って歩いていた。俺も黙っていた。話すことがなかった。


駅の手前で、妻が立ち止まった。


「質屋、どこ」


俺は妻を見た。妻は俺を見ていなかった。前を見ていた。


「駅裏の路地」


「連れて行って」


俺は歩き出した。妻がついてきた。


店主は俺の顔を見て、それから妻を見て、楽しそうに笑った。


「返しには来ないって言ってたのに」


「私が連れてきました」


妻が言った。店主は妻の方を向いた。


「奥さん。戻したら、この人はまた殴るかもしれませんよ?」


「知ってます」


妻は俺の右手を見た。それから店主に向き直った。


「でも、娘が汚されて帰ってきたときに『そうですか』としか言えない父親を、これ以上見ていられません」


俺は妻を見た。妻は、怒りのある俺を選ぼうとしている。


店主は肩をすくめた。奥で店員が顔を上げた。


「この二ヶ月、どうでしたか」


分からなかった。ただ、この二か月と言われ、思い浮かんだのは二人の笑顔だった。


店主は退屈そうに棚から小さな箱を出した。俺が財布に手を伸ばしたが、妻が先に金を置いた。俺の金ではなく、妻の金だった。


妻が金を払うと店主が持つ小さな箱は消えた。



「これで外に出れば、怒りが戻るよ」


俺は戸に手をかけた。妻が先に外へ出た。


「家族は、大事にしてくださいね」


店員の声に俺は振り返った。


この店員もよく分からない、いい人ではありそうだが何かが欠けているような。


店主が店員に笑って言った。


「君に家族のことなんか分かるの?」


俺は何も言わずに、店を出た。



今感じるのは娘を傷つけられた怒りと、過去の自分に対する怒りだった。





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