2話 痛み
痛みというのは音に似ている。 最初は遠くで鳴っているだけだったのが、いつのまにか部屋中に響いて、ほかの何も聞こえなくなる。
私の腹の中で鳴り続けているそれは、半年前に膵臓から始まった。医者には手術はできないと言われ薬の量を増やしたが、それでも夜は眠れなかった。
質屋のことは、病院の待合室で聞いた。隣に座った男が、ぼそぼそと駅裏に何でも預かる店があると言った。冗談だと思ったが、その男の目は本気だった。
路地にある古い店。看板の「質」の字だけが新しい。 私はゆっくり戸を引いた。腰を曲げると腹が鳴る。
「いらっしゃい」
店主は顔を上げて笑った。年の分からない男だ。
「痛みを預かってもらえると聞いた」
「痛覚だね。預かれるよ」
あっさり言われて、私は逆に不安になった。
「金はいらない。ただ、眠りたいんだ」
「金は出すよ。うちは質屋だからね。それに、金はあって困らないだろう」
カウンターの端で、若い店員が顔を上げた。白いシャツ。名札に「キョウ」とある。 店員は私の顔を見て、それから腹のあたりを見た。医者と同じ目だった。何かを測っている目。
「あの」
店員が口を開いた。
「痛覚を手放すと──」
店主が首だけ動かして、店員を見た。笑っていなかった。ほんの一瞬だった。 店員は口を閉じた。
「彼は新人でね。気にしなくていい」
店主はまた笑顔になっていた。
「痛覚を手放すと楽になる。それだけだ」
私は店員を見た。店員は帳簿に目を落としていた。ペンを持つ手が、動いていなかった。
「買取と、預かりがある」
店主は帳簿を開いた。
「買取なら高く出す。ただし二度と戻らない。預かりなら安いが、三か月以内に返しに来れば戻せる」
「三か月も生きられるか分からない」
「まあ痛覚なら預かりの方がおすすめかな、心変わりするかもしれないし」
私は預かりで帳簿に指を押した。
「効くのは、店を出てからだよ」
店員が水を出してくれた。私はそれを飲んだ。店員の手の甲に、古い火傷の痕があった。
「ありがとう」
店員は何も言わなかった。
路地に出て、三歩歩いたところで、音が止んだ。
私は立ち止まった。腹に手を当てる。硬い。だが、痛みはない。 半年ぶりの静かさだった。私はその場で少し泣いた。通りがかりの人が変な顔をして通り過ぎた。
それから数週間は、いい日々だった。
夜は眠れた。飯が食えた。妻と散歩をした。娘が孫を連れてきて、膝に乗せても、腹は痛くなかった。
医者は首をかしげた。数値は悪くなっているのに、痛みがないと言うと、「そういうこともあります」とだけ言った。
私は、いい死に方ができそうだと思った。
七週目の朝、腹が張っていた。
熱もある。少しだるい。だが、痛くはない。 妻が病院に行こうと言った。私は明日にすると言った。せっかく静かなのだ。この静かさを、病院の廊下で潰したくなかった。
昼過ぎ、汗が止まらなくなった。腹はさらに張って、板みたいになっていた。 痛くはない。
夕方、立てなくなった。
妻の声が遠い。娘の名前を言おうとしたが、出てこなかった。
痛くは、ない。
《次の日》
「流れたね」「言ってなかったけど死んだら期限を待つまでもなく流れるよ」
店主は帳簿の一行に、定規で線を引いた。 新聞の片隅に、小さな死亡記事があった。
◯◯会社役員急性腹膜炎で死去。享年五十八。
キョウは新聞を畳んだ。
「穿孔です。胃か、腸か」
「痛みがあれば、救急に行っていた。開腹すれば助かる病気です」
「がんは治らないよ」
「がんで死ぬのと、腹膜炎で死ぬのは違います」
店主は定規を置いた。
「違うかい?彼はよく眠れて、飯が食えて、孫を抱いた。うちに来なければ、痛みの中で三か月かけて死んだ」
「あのとき、言えていれば」
「言えていても、彼は預けたよ」
店主はそう言って、痛覚の入った小さな箱を棚の奥に仕舞った。
「そろそろ慣れてくれよ」
キョウは自分の手を見た。火傷の痕。熱かったはずだが覚えていない。 痛みがなければ気づけない病気は、いくつもある。無痛性の心筋梗塞。糖尿病の足の壊疽。
「相変わらず病気に詳しいね」
店主は笑った。
「次の客が来るよ」
店主が窓の外を見て言った。 キョウは帳簿を開いた。




