1話 地獄の始まり
その店は、駅裏のパチンコ屋から歩いて五分の路地にあった。 看板は木で、文字はほとんど読めない。ただ「質」の一字だけが誰かが最近彫り直したみたいにくっきりしていた。
俺はなんとなく戸を引いた。今日も負けた。先週も負けた。消費者金融はもう限度額いっぱいだ。
店の中は外から想像したより明るくて、妙に清潔だった。カウンターの奥に店主らしき男が一人、こちらを見ずに座っている。
「いらっしゃい」
店主は顔を上げて笑った。歯が白い。
「質屋で合ってるか?」
「そうだよ。何を預ける?」
「いや、担保になるようなもんは、もう」
俺は両手を広げてみせた。時計はとっくに売った。スマホは今月止まる。
店主は笑ったままだった。
「あるじゃないか。あんたが持ってるものなら、何でもいい」
意味が分からなかった。店主の視線が俺の頭のあたりを撫でるように動いた。
「たとえば記憶。借金で苦しんだ記憶なんて、持ってても重いだけだろう。それを預けてくれたらまとまった額を出せる」
「は?そんなことできるのか」
「できるよ。うちはそういう店だ」
カウンターの端で、誰かが動いた。若い店員だった。二十代の半ばくらいで、白いシャツの袖を几帳面に折っている。帳簿から顔を上げて、俺を一度だけ見た。何か言いたそうな顔に見えたが、すぐにまた帳簿に戻った。
「あの人は?」
「うちの従業員。気にしなくていい」
店主は帳簿を一冊取り出し、俺の前に置いた。
「預かるのは、あんたの借金にまつわる記憶。金額、催促の電話、眠れなかった夜。そういうのを全部。期限は三か月。元金と利息を払えば、そっくりそのまま返す」
「消えてくれた方がいいくらいの記憶だな」
俺が言うと、店主は本当に嬉しそうに声を出して笑った。
「みんなそう言う。だから安心して預けるといい」
出せる額を聞いて、俺は少し黙った。今日負けた分どころか、金融三社の返済を合わせても釣りが来る。
「本当に、それだけでいいのか?」
「ああ、安心してよ」
若い店員がペンを置く音がした。俺は顔を向けなかった。
判を押した。判なんて持っていなかったが、店主は「指でいい」と言った。帳簿に指を押しつけた。
「はい、これで完了」
「効くのは、店を出てからだよ。中にいる間は、まだ何も変わらない」
店主は封筒を差し出した。厚い。俺は受け取って礼を言った。生まれて初めてくらい素直に。
若い店員が水の入ったグラスを俺の前に置いた。手の甲に、古い火傷の痕があった。俺はそれを見て、それから店員の顔を見た。若いのに、疲れた目をしていた。
名札に「キョウ」と書かれている。
「ありがとう」
店員は何も言わなかった。俺は水を飲み干して、店を出た。
戸を引いて、路地に出た。外は夕方だった。
一歩踏み出したところで、俺は立ち止まった。 手に厚い封筒がある。開けると、札が入っていた。
どこで手に入れたのか、思い出せなかった。
肩から何かが降りた。ずっと背負っていたと気づかなかったものが、地面に落ちた気がした。
俺はパチンコ屋の方へ歩き出した。
《数日後》
俺は駅裏の路地を歩いていた。財布は薄い。あの金はどこで手に入れたのか覚えていないが、とにかくもう無い。どこかで何かをやらかした感じだけがある。
路地の途中に、古い店があった。看板に「質」と書いてあるが俺はそのまま通り過ぎた。金になるものなど持っていない。
戸の内側で、誰かが笑った気がしたが、振り返らなかった。
「今日も通ったね」
店主は窓の外を見て言った。 帳簿を閉じたキョウは、その背中に向かって口を開いた。
「返せないと分かっていて、取ったんですか」
店主は振り向かなかった。
「取ったのは記憶だよ。借金の記憶。うちのことも、借金のうちだろう?」
「絶対パチンコで無駄にしてくれると思ったんだよねー。彼にはこれからは身に覚えのない借金を返済する地獄のような日々が待ってるよ」
店主は楽しそうに続けた。
「仮にもう一度この店を訪れてきても彼からはもう何も預からないけどね。面白くないし」
キョウは何も言わなかった。言えなかった。
「不満そうだね」
店主がようやく振り向いた。笑っている。
「契約を思い出しなさい。キミは口出しをしない。私はキミの預かり物を丁寧に保管する。それでいいだろう」
「はい」
キョウは帳簿を棚に戻した。 窓の外ではさっきの客がもう一度、同じ路地を通り過ぎていった




