25話 侵食
翌日の午後、レイはまた店にいた。
昨日とは違って手土産はなく、いつもの丸椅子に座ってスマートフォンを眺めている。キョウはカウンターで帳簿を整理し、店主は棚の奥で何かをしていた。ここ数日は店に来る人間を見るたび、三人の「客ではない客」の顔を思い出すようになっていたが、その日は昼を過ぎても普通の質入れが一件あっただけで、特に変わったことは起きていなかった。
戸が開いたのは、二時を少し回った頃だった。
入ってきたのは二十代後半くらいの女だった。肩までの髪を後ろで一つにまとめ、薄い色のカーディガンを羽織っている。緊張しているようで、店内に入ってから何度か小さく息を吐いていた。
「いらっしゃいませ」
キョウが声をかけると、女はカウンターまで来て、少し迷ってから口を開いた。
「人を疑う気持ちって、預かってもらえますか」
キョウは一瞬、レイを見た。
レイもスマートフォンから顔を上げている。
少し前にも、よく似たものを売った客がいた。
「できますよ」
店主が奥から出てきた。
女は少し安心したようだった。
「全部じゃなくても?」
店主が立ち止まる。
「全部じゃない?」
「一人だけなんです」
「一人だけ?」
「特定の人を疑う気持ちだけ、なくしたくて」
店主の口元が少し上がった。
「面白い注文だね」
キョウも初めて聞く依頼だった。
「そんなことできるんですか」
「できるよ」
店主は女の前の椅子を指した。
「本人の中でちゃんと分かれてるならね」
女が座る。キョウは帳簿を開いたが、自然と話の方に意識が向いた。
「ちゃんと分かれてるって、どういう意味ですか」
女が聞く。
「例えば『人間そのものが怖い』って人から、特定の一人への恐怖だけ取るのは難しいことがある。本人の中で全部同じ恐怖として混ざってるから。でも『この人だけが怖い』『この場所だけが怖い』って本人がはっきり分けて感じてるなら、そこだけ切り取れる場合もある」
「疑う気持ちも?」
「同じだね。世の中全部を疑ってるんじゃなくて、その人だけを疑ってるなら」
女は何度か頷いた。
その反応を見て、キョウは少し引っかかった。できるかどうかを確認しに来たというより、できることをある程度知っていて、最終確認をしているように見えた。
店主が聞く。
「誰を疑わなくなりたいの?」
女は一瞬だけ口を閉じた。
「相談に乗ってくれている人です」
「名前は?」
「必要なんですか」
「切り分けるなら、その方が確実」
女は少し迷ってから、一人の男の名前を言った。キョウの知らない名前だった。
「その人に何かされたの?」
「何もされてません」
「じゃあ、どうして疑うの?」
女は膝の上で手を組んだ。
「すごく良くしてくれるんです。私が仕事を辞めたときも話を聞いてくれて、何度も会ってくれて。今までの考え方を変えた方がいいって教えてくれたのもその人です」
キョウとレイが、ほとんど同時に女を見る。
「でも」
女は続けた。
「時々思うんです。本当にこの人を信じていいのかなって」
店主は何も言わない。
「優しくされるほど、何か目的があるんじゃないかって考えてしまって。言われた通りにしていいのかなとか、私を利用してるんじゃないかなとか」
「それで、その疑いだけをなくしたい?」
「はい」
「その人以外は疑ってもいいんだ」
「むしろ、そうしたいです」
女は少し笑った。
「誰でも信じる人になりたいわけじゃないので。知らない人とか、怪しい話とかはちゃんと疑いたいです。ただ、あの人のことだけは信じたいんです」
キョウは、少し前に来た女を思い出していた。
あの客は「疑う気持ち」そのものを売った。
今回は違う。
疑う能力は残す。
特定の一人に対してだけ、それを使えなくする。
「誰かに、そうした方がいいって言われたんですか」
キョウが聞く。
女は首を振った。
「違います。何を手放すかは、自分で決めました」
また同じ言葉だった。
何を手放すかは、自分で決める。
以前の女も、似たことを言っていた。
「ただ」
女は続ける。
「相談したときに、苦しみを一つの大きなものとして考えない方がいいって言われたんです」
「どういう意味です?」
「何が自分を苦しめているのか、細かく分けて考えてみなさいって。仕事が嫌なのか、人が怖いのか、失敗が怖いのか。それを一つずつ分ければ、本当にいらないものが分かるからって」
レイがスマートフォンを伏せた。
「その人、この店のことも知ってるの?」
女はレイを見る。
「はい」
「一人に対する感情だけでも預けられるって聞いた?」
「できるかもしれないって」
「誰から?」
「その人からです」
店の中が少し静かになった。
キョウは店主を見る。
店主は相変わらず笑っている。
「よく知ってる人なんだね」
店主が言った。
「いえ、詳しくは知らないみたいです。本当にできるかどうかは、ここで聞いてみなさいって言われました」
「なるほど」
店主は何か考えるように女を見たあと、帳簿を引き寄せた。
「じゃあ査定しようか」
「お願いします」
キョウは少し驚いた。
契約するらしい。
店主は女にいくつか質問した。その男と出会ってからどれくらいか。どんな場面で疑うのか。何を言われたときに違和感を覚えるのか。その疑念は他人に対するものとは区別できているのか。
女は一つずつ答えた。
話を聞くほど、その疑念は明確だった。
その男から連絡が来たときだけ、少し怖くなる。何かを勧められたときだけ、本当に自分のためなのかと考える。ほかの人に対して抱く警戒心とは、自分でも違うものだと分かるという。
店主は紙に金額を書いた。
女はそれを見る。
「思ったより安いんですね」
「一人分だからね。君の疑う力全部を買うわけじゃない」
「分かりました」
「預かりにする? 買取?」
女は少しだけ迷った。
「買取で」
キョウは女を見る。
「本当にいいんですか」
女もこちらを見る。
「はい」
「その人だけを疑えなくなるんですよね」
「それが欲しくて来たので」
答えは穏やかだった。
迷っている様子もない。
店主が改めて説明する。
「その人の言うことが全部正しいと思うようになるとは限らないよ。ただ、『何か裏があるんじゃないか』『騙されてるんじゃないか』っていう疑いは持ちにくくなる。それ以外の理由で反対することはできる」
「大丈夫です」
「後からおかしいと思っても、疑うという感覚が働かない可能性はある」
女は頷いた。
「お願いします」
契約が終わり、店主が金を渡した。
女は封筒を鞄に入れて立ち上がる。
「効くのは外に出てから」
「はい」
戸の前まで行ったところで、レイが声をかけた。
「その人のところに今から行くの?」
女は振り返った。
「はい。今日も会う約束なので」
「そう」
それ以上、レイは何も言わなかった。
女が外へ出る。
戸が閉まり、しばらくして店主が棚に新しい箱を置いた。
キョウは何となく近づいた。
ラベルには、さっき女が口にした男の名前と、その下に小さく書かれていた。
『疑念』
今まで見た箱より、妙に具体的だった。
「本当に一人分だけなんですね」
「そうだよ」
店主は箱の位置を整えた。
「じゃあ、例えば誰か一人への怒りとか、一人だけを好きな気持ちとかも?」
「本人の中で切り分けられるなら」
「場所とかも?」
「できるものもある」
「どこまで細かくできるんですか」
店主が笑った。
「それは人によるね」
「人による?」
「人間の中身って、最初から綺麗に分けて入ってるわけじゃないから。本人がどこまで別のものとして持ってるかで変わるよ」
キョウは箱を見る。
横からレイが言った。
「前の人は全部だったよね」
「はい」
「疑う気持ち、そのもの」
「今回は一人だけ」
二人とも少し黙った。
キョウが先に言った。
「偶然だと思います?」
「何が?」
「前は全部取れるか試して、今回は一人分だけ取れるか試してる」
レイは箱を見た。
「私もそれ考えてた」
「やっぱり」
「でも本人は本気だった」
「はい」
そこが一番気味が悪かった。
誰かに無理やり言わされていたわけではない。
女は本当に、その男を疑うことに苦しんでいた。
本当に、その疑いをなくしたいと思っていた。
ただ、その答えに辿り着くまでに、誰かが隣にいただけだ。
「前に来た人たち」
キョウが言った。
「箱のこととか、店主がどこまでできるかとか聞いてきましたよね」
「うん」
「そのあとにこれって」
レイが頬杖をつく。
「店で直接聞いても分からなかったから、客にやらせてみた」
「そんな感じしません?」
「するね」
店主は二人の会話を聞きながら、特に何も言わなかった。
キョウが振り返る。
「店主は何とも思わないんですか」
「何が?」
「試されてるかもしれないんですよ」
「注文されたものを取っただけだよ」
「でも、向こうは何ができるか調べてるかもしれない」
「調べればいいんじゃない?」
店主の答えは軽かった。
レイが見る。
「随分余裕だね」
「できることを知られるくらいなら困らないよ」
「じゃあ、何を知られたら困るの?」
店主は笑った。
「それを教えたら意味ないでしょ」
レイは小さく息を吐いた。
「ほんと嫌な人」
「よく言われる」
キョウはもう一度、棚の箱を見る。
『疑念』
ただし、その上には一人の人間の名前がある。
感情は、丸ごと一つではなかった。
相手を指定して、その一部分だけを切り取ることすらできる。
キョウ自身、今日まで知らなかった。
そして今、そのことを知ったのは自分たちだけではない。
女はこのあと、相談相手のところへ行くと言っていた。
そこで何を感じるのか。
何を感じなくなったのか。
おそらく、それを知りたがっている人間が店の外にいる。
キョウには、さっきの女が客というより、答えを持ち帰るために送り込まれた質問のように思えた。




