23話 ミカタ
「じゃあ、今日は任せるよ」
開店して間もなく、店主は上着を羽織りながらそう言った。
キョウは帳簿から顔を上げる。
「どこか行くんですか」
「ちょっとね」
「いつ戻ります?」
「夕方には」
店主が一日近く店を空けるのは珍しかった。レイなら何日も姿を見せないことがあるが、店主はほとんどいつもここにいる。どこで寝ているのかすら知らないが、朝もいるし、夜になってもいる。
「普通の質入れならやっていいんですよね」
「いいよ。金額に迷ったら待ってもらって。記憶とか感情とか来たら、私が戻るまで契約はしないでね」
「分かりました」
「棚の商品も売らないように」
「売り方知りませんよ」
「じゃあよろしく」
店主は笑って戸を開けた。
「たまには一人で店番もいいでしょ」
「僕、ここから出られないんだから普段からほとんど店番してるようなものですけど」
「確かに」
店主はそのまま外へ出ていった。
戸が閉まる。
静かになった。
レイも今日は来ていない。
本当に一人だった。
最初の客が来たのは、それから一時間ほど経ってからだった。
四十代くらいの男だった。黒いジャケットに黒いズボン。特別目立つ格好ではないが、手には何も持っていない。
「いらっしゃいませ」
キョウが言う。
男は返事をせず、店内を見回した。
時計や鞄が置かれた普通の質屋らしい棚を見たあと、視線が奥へ移る。小さな箱が並んでいる棚の前で止まった。
「何かお預けですか?」
キョウが聞くと、男は少し遅れてこちらを見た。
「ここ、何でも預かるんですよね」
「何でもではないですけど、普通の質屋じゃ扱わないものも預かります」
「例えば?」
「記憶とか、感情とか。身体の一部も」
男は驚かなかった。
「本当に?」
「はい」
「どうやって?」
キョウは少し考えた。
「どうやってって言われると……僕にも分からないです。契約して、店主が預かります」
「あなたじゃない?」
「僕にはできません」
男はまた棚を見る。
「あの箱?」
「そうです。預かったものは、基本的にあそこに保管されてます」
「全部?」
「期限内のものもありますし、買取したものや、期限が切れて店のものになったものもあります」
男は数秒、棚を見ていた。
箱を数えているようにも見えた。
「中を開けたらどうなるんですか」
「何も起きないと思いますよ」
「思う?」
「僕も中を見たことはないので」
「触ったことは?」
「あります。普通の箱です」
男は頷いた。
その質問が何のためなのか、キョウには分からなかった。珍しい店なのだから興味を持つ人間がいてもおかしくない。実際、最初に来た客の中には、契約より店の仕組みを知りたがる人間もいた。
「店主は?」
「今日は出てます」
「いつ戻る?」
「夕方くらいです」
男はもう一度店内を見た。
「そうですか」
「何か預けたいものがあるなら、店主が戻ってから来てもらえれば」
「いや」
男は首を振った。
「見に来ただけです」
それだけ言って、店を出ていった。
キョウは戸を見た。
変な客だとは思った。
ただ、それだけだった。
二人目が来たのは昼を過ぎた頃だった。
今度は三十代くらいの女だった。こちらも手ぶらで、入ってすぐに棚を見る。
「いらっしゃいませ」
女は小さく頭を下げた。
「買うこともできるんですよね」
「何をですか?」
「ここに預けられてるもの」
「ああ。できますよ」
女は棚へ視線を向けたまま聞いた。
「感情も?」
「店のものになってるなら」
「店のもの?」
「買取されたものとか、預かり期限が切れたものです。まだ預かってる途中のものは売れません」
「誰でも買えるんですか」
「基本的には。商品によると思いますけど」
「あなたからでも?」
「僕は売ったことないですね。販売も店主がやります」
「店主じゃないと駄目?」
「たぶん。少なくとも僕にはできません」
女は少しだけこちらを見る。
「どうして?」
「感情とか記憶を人に移す方法を、僕は知らないので」
「店主は知ってる?」
「はい」
「店主しか知らない?」
キョウはそこで少し考えた。
「少なくとも、僕は知りません。レイさんもたぶん知らないと思います」
「レイ?」
「あ」
名前を出す必要はなかったかもしれない。
ただ、女はそこには食いつかなかった。
「箱を別の場所に持っていっても使えない?」
「分からないです。でも勝手に持っていくのは駄目ですよ」
「もちろん」
女は笑わなかった。
そのまま棚の前をゆっくり歩く。
箱に触れることはない。ただ、一つ一つ文字を読むように視線を動かしていた。
「結構あるんですね」
「長くやってる店みたいなので」
「いつから?」
「それも僕は知らないです」
「店主はずっと同じ人?」
「多分」
「多分?」
「僕がここに来る前のことは知らないので」
女はそれ以上聞かなかった。
「ありがとうございます」
「何か買います?」
「今日はいいです」
「じゃあ、また店主がいるときに」
「そうします」
女も帰った。
戸が閉まったあと、キョウは少しだけ眉を寄せた。
さっきの男と似ている。
何も持ってこない。
何も売らない。
何も買わない。
店のことだけ聞いて帰る。
とはいえ、二人くらいなら偶然かもしれない。
キョウは昼食を取り、帳簿を整理した。
夕方近くになって、三人目が来た。
若い男だった。
二十代後半くらい。白いシャツに黒いパンツ。入ってきても挨拶はなく、戸の前で立ったまま店の中を見ている。
「いらっしゃいませ」
反応がない。
男の視線は棚からカウンターへ、カウンターから奥の扉へ動いた。それから天井を見る。窓を見る。最後にまた入口を見る。
まるで何かの位置を覚えているようだった。
「何か御用ですか?」
キョウが聞く。
「……見てるだけです」
その言葉を聞いた瞬間、朝の男を思い出した。
見に来ただけ。
偶然だろうか。
「どうぞ」
キョウはそう答えた。
男は店内をゆっくり歩いた。
奥の棚の前で止まる。
「これ、全部中身が違うんですか」
「はい」
「何が入ってるか分かる?」
「ラベルが付いてるものは」
「あなたのもある?」
キョウは男を見る。
「ありますよ」
答えてから、少し後悔した。
「どれ?」
「それは教えなくていいでしょう」
「そうですね」
男はあっさり引いた。
妙だった。
知りたがっている割に、断ればそれ以上聞かない。
「今日、店主いないんですね」
「はい」
「あなた一人?」
「今は」
「一人でも営業できる?」
「普通の質屋の仕事なら。感情とか記憶の契約はできません」
「店主がいないと無理?」
「無理です」
「預かってあるものを返すのも?」
「僕にはできません」
「売るのも?」
「できません」
「新しく預かるのも?」
「できません」
男は小さく頷いた。
「じゃあ、店主がいなかったら、箱はただ置いてあるだけなんですね」
キョウは少し引っかかった。
「まあ……そうですね」
「箱自体には何もない?」
「何もないっていうか、中には預かったものが入ってるんでしょうけど」
「どうやって入ってる?」
「それは知りません」
「取り出し方も?」
「知りません」
「店主だけが知ってる?」
「たぶん」
「店主が死んだら?」
キョウは黙った。
今まで考えたこともなかった。
「……分かりません」
「そうですか」
男は棚から離れた。
今度はカウンターの内側を見ている。
「帳簿には何が書いてあるんですか」
「客の名前とか、預けたものとか、金額とか、期限です」
「見ても?」
「それは駄目です」
「分かりました」
また、すぐに引いた。
男は入口へ向かった。
キョウは思わず聞いた。
「何か預けに来たんじゃないんですか」
「違います」
「買いに?」
「それも違います」
「じゃあ何しに?」
男は戸に手をかけた。
「興味があっただけです」
「この店に?」
「はい」
戸が開く。
男は外へ出る前に、一度だけ振り返った。
「店主は、明日はいますか」
「いると思います」
「そうですか」
「会いたいなら、明日来ます?」
男は少しだけ間を置いた。
「いえ」
そのまま帰っていった。
戸が閉まった。
店の中が静かになる。
キョウはしばらく立ったままだった。
三人。
朝の男。
昼の女。
夕方の男。
全員、何も持ってこなかった。
全員、何も預けなかった。
そして全員、店について聞いた。
最初の男は、何を預けられるのか。箱は何なのか。店主はいるのか。
次の女は、預かったものを売れるのか。誰が扱えるのか。箱を別の場所へ持っていったらどうなるのか。
最後の男は、店主がいないと何ができないのか。箱から取り出す方法を知っているのは誰か。帳簿には何が書いてあるのか。
一人ずつなら、ただの好奇心に見えた。
三人分を並べると、違った。
「……調べてた?」
口にすると、余計に気味が悪かった。
何を。
この店を。
それとも店主を。
キョウは棚を見る。
いつも見ている小さな箱が、今日は少し違って見えた。
閉店時間が近づいた頃、店主が戻ってきた。
「ただいま」
いつもの声だった。
「おかえりなさい」
「どうだった? 一人で」
「普通でした」
答えてから、キョウは少し考えた。
「いや、普通じゃないかも」
店主が上着を脱ぐ。
「何かあった?」
「変な人が三人来ました」
「三人?」
「何も売らずに?」
キョウは店主を見る。
「まだそこまで言ってませんけど」
店主は少し笑った。
「じゃあ当たり?」
「全員、何も持ってきてません。何か預けるわけでも、買うわけでもなくて、店のことばっかり聞いて帰りました」
「何を聞かれたの?」
キョウは覚えている範囲で話した。
何を預かれるのか。
箱に保管されているのか。
買取品を売れるのか。
誰が感情や記憶を扱えるのか。
店主がいないと何ができないのか。
箱だけ持ち出しても使えるのか。
帳簿には何が書かれているのか。
店主は黙って聞いていた。
「結構答えたんだね」
「聞かれたので」
「キョウらしいね」
「まずかったですか」
店主は少し考える。
「別に」
「別に?」
「知られて困るところまでは、君も知らないから」
キョウは顔をしかめた。
「なんか馬鹿にしてません?」
「してないよ」
「じゃあ、あの人たち何だったんですか」
「さあね」
「宗教の人たちだと思います?」
店主はすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、キョウは少し嫌な気分になった。
「可能性はあるんじゃない?」
「だったら、もっと警戒した方が」
「次から棚には近づけないで」
店主が言った。
キョウは少し驚いた。
今までなら、もう少し面白がると思っていた。
「やっぱり危ないんですか」
「危ないかは分からないよ」
店主は棚へ歩き、箱を一つ手に取った。
いつものように埃を払う。
「でも、商品を勝手に調べられるのは好きじゃない」
それだけだった。
店主は何事もなかったように箱を戻した。
キョウは入口を見る。
今日は三人とも、何も盗まなかった。
誰かを脅したわけでもない。
契約を邪魔したわけでもない。
ただ質問して、店の中を見て、帰った。
それだけだった。
それなのにキョウには、いつもの客よりずっと多くのものを持ち帰られたような気がした。




