22話 徐々に
「全然いなーい」
昼を少し過ぎた頃、レイは店に入ってくるなりそう言った。いつものように軽い調子ではあったが、普段より歩き方が少し重い。カウンターの内側へ回ると、鞄を置いて丸椅子に座った。
キョウは帳簿から顔を上げた。
「何がですか」
「客」
「今日はまだ一人来ましたよ」
「そうじゃなくて、私が見つける方」
レイは頬杖をついた。
「朝から三か所回ったんだけど、一人もいなかった」
「困ってる人が?」
「そんなわけないでしょ」
即答だった。
「困ってる人なんて、どこにでもいるよ。借金してる人もいるし、家族とうまくいってない人もいるし、仕事辞めたい人もいる。ただ、この店を教えられそうな人がいない」
キョウは少し考えた。
レイが探しているのは、単に悩みを抱えている人間ではない。自分の中の何かを本気で「いらない」と思っている人間だ。以前、子供を助けるためなら腕でも目でも差し出すと言った母親を、レイは客にしなかった。失いたいのではなく、必要なら犠牲にする覚悟があるだけだからだ。
「前からそんなに簡単に見つかるものじゃないでしょう」
「それでも一日歩けば、一人くらいはいたんだけどね」
「今日はたまたまじゃないですか」
「今日だけならね」
レイはペットボトルを取り出し、蓋を開けた。
「ここ数日ずっと」
キョウの手が止まった。
「……前に言ってた団体ですか」
「多分」
奥で棚を整理していた店主は何も言わなかったが、こちらの話は聞いているようだった。
レイは水を一口飲んでから続けた。
「今日もいたんだよ。病院の待合室で、ずっと奥さんに電話してる男。仕事辞めてから家にいづらいみたいで、自分なんかいない方がいいって話してた」
「それ、かなり危なそうじゃないですか」
「だから少し見てた。でも電話切ったあと、誰かと会ったんだよね」
「誰か?」
「女の人。知り合いっぽくはなかった。横に座ってしばらく話して、それから何か紙渡してた」
「宗教の人?」
「分からない。追いかけてないから」
キョウは眉を寄せた。
「追いかけなかったんですか」
「私、探偵じゃないよ」
「最近は似たようなことしてるじゃないですか」
「勝手に店主と一緒にしないで」
店主が奥から笑った。
レイは無視した。
「他にもいた。仕事の愚痴ずっと言ってた女の人に少し話聞こうと思ったら、『相談に乗ってくれるところを紹介してもらった』って。別の人は『話を聞いてくれる人たちがいる』。前なら、そこから私が噂を置けたような人たち」
「先に見つけられてる」
「そういうこと」
キョウは妙な感覚になった。
質屋の客自体は減っていない。むしろ少し前から増えている。宗教団体が質屋を教えているのだから当然と言えば当然だ。
「取られてるんだよ、私の仕事」
「それ、本気で悔しがってます?」
「ちょっとは」
レイは少し不満そうに答えた。
「自分で見つけた方が面白いし」
「そこなんですね」
「それに、私は誰でも連れてくるわけじゃない」
その言葉だけは少し真面目だった。
キョウはレイを見る。
「団体の人たちは違う?」
「知らない。でも少なくとも、私より手広くやってる」
レイは指を折るように数え始めた。
「病院、駅前、相談所の近く、夜の飲み屋。最近はネットでもそれっぽい話が出てるらしいし」
「ネット?」
「『悩みを手放せる場所がある』とか『人生をやり直す方法を知ってる人がいる』とか。その店の名前は出してないけど」
「それだけじゃ、あの団体とは限らないでしょう」
「うん。だからまだ分からない」
レイはそう言ったが、あまりそう思っている顔ではなかった。
そのとき戸が開いた。
入ってきたのは二十代くらいの男だった。
「ここ、何でも預かってくれるって聞いたんですけど」
キョウとレイが同時に顔を上げた。
店主だけがいつも通り笑った。
「物によるよ。何を?」
男は少し恥ずかしそうに笑った。
「人の目を気にするのを、なくせないかなって」
話を聞けば、職場でも街中でも他人からどう思われているのかばかり気になり、疲れたという。誰に店を教えられたのかキョウがそれとなく聞くと、「知り合いの知り合い」とだけ答えた。
宗教団体から来たのかは分からない。
男は結局、三か月だけ「他人からの評価を気にする感覚」を預けて帰った。
戸が閉まると、レイが言った。
「ほら」
「何がですか」
「私が一日歩いても見つからなかったのに、向こうから来る」
キョウは帳簿に男の名前を書きながら答えた。
「今の人が団体から来たとは限らないでしょう」
「分かってるよ」
「なら」
「でも前は、ああいう人を私が探してたんだよね」
キョウはペンを止めた。
確かにそうだった。
誰にも言えない悩みを抱え、自分の一部を手放せたら楽になると思っている人間をレイが見つけ、直接ではなく噂だけを置いていく。それがこの店に客が来る一つの流れだった。
今は、その途中に別の誰かがいる。
「店主」
レイが呼んだ。
「何?」
「このまま私、いらなくなるかも」
店主は振り返りもしなかった。
「楽でいいじゃない」
「給料減らさないでよ」
キョウは少し笑った。
レイがこちらを見る。
「何笑ってるの」
「いや。レイさんにも仕事取られるとかあるんだなって」
「あるよ。結構大変なんだから」
「遊んでるようにしか見えませんけど」
「じゃあ代わる?」
「外に出られないの知ってるでしょう」
「あ、そうだった」
「それ、何回忘れるんですか」
レイは少し笑ったあと、また入口を見た。
「でも変なんだよね」
「何がです?」
「私が客を見つけるときって、結構時間かかるんだよ。その人が本当に何かを捨てたいのか見ないといけないから」
「はい」
「向こうは、どうやってこんなに早く見つけてるんだろう」
キョウは答えられなかった。
単純に人数が多いのかもしれない。相談に来る人間が向こうから集まってくるからかもしれない。
あるいは、最初から困っている人間が集まる場所を知っているのか。
「もう少し回ってみる」
レイが立ち上がった。
「今日まだ行くんですか」
「一応仕事だからね」
鞄を持ち、戸へ向かう。
外へ出る直前、レイは振り返った。
「次にそれっぽい客来たら、誰から聞いたか聞いといて」
「また僕ですか」
「私は外担当。キョウは中担当でしょ」
いつの間にか決まっていたらしい。
「分かりましたよ」
「よろしく」
レイは店を出た。
キョウは戸が閉まったあと、今日の帳簿をもう一度見た。
以前は、レイが誰かを見つけ、その人がいつかこの店を訪れる。
今は違う。
レイが見つけるより先に、誰かが悩んでいる人間を拾っている。
そして、この店へ送ってくる。
客が増えているのに、レイには客が見つからない。
キョウにはその矛盾が、少しずつこの店の外側を囲まれているように思えた。




