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21/53

21話 ???


その日は、朝から普通の客しか来ていなかった。


時計が一つ、指輪が二つ。昼を過ぎてから来た四十代くらいの男も、カメラを預けたいというだけだった。


「売るわけじゃないんです。来月には給料入るんで、それまで」


男はそう言って、古いカメラをカウンターへ置いた。


店主が手袋をつけ、状態を確認し始める。キョウは横で帳簿を用意していたが、男が何度も脇腹のあたりを掻いていることに気づいた。


最初は気にしていなかった。


ただ、少しするとまた掻く。


そのたびに顔をしかめている。


「痒いんですか」


キョウが聞くと、男は脇腹から手を離した。


「ああ、これ? なんか虫に刺されたみたいで」


「いつからです?」


「一昨日くらいかな」


「痛くないですか」


男が少し驚いた顔をした。


「痛い。なんで分かったの?」


その言葉を聞いた瞬間、キョウは男の方へ身体を向けていた。


「どんな痛みです?」


「どんなって……ピリピリする感じ。服が擦れると痛いかな」


「片側だけですか」


「多分」


「ちょっと見てもいいですか」


男は不思議そうにしながら、シャツを少し持ち上げた。


脇腹に赤い発疹があった。


小さな水疱がいくつかまとまって、それが横に並ぶように広がっている。


キョウは自然にしゃがんだ。


「反対側にもあります?」


「いや、こっちだけ」


「背中の方まで続いてます?」


男がシャツをもう少し上げる。


赤い発疹は脇腹から背中へ伸びていた。


キョウは触らなかった。


「熱は?」


「ないと思う」


「だるさとか」


「昨日ちょっと。でも仕事だったし、そのせいかも」


「最初に痛くなって、そのあと発疹が出ました?」


男は少し考えた。


「ああ、そうかも。最初、筋肉痛だと思ったんだよ。次の日見たら赤くなってて」


「皮膚科行った方がいいですよ」


キョウは立ち上がった。


「今日行けるなら今日」


男が目を丸くする。


「そんなヤバいやつ?」


「たぶん帯状疱疹だと思います」


店主がカメラから顔を上げた。


男も自分の脇腹を見る。


「帯状疱疹?」


「水疱が片側だけにまとまって出てて、その前からピリピリした痛みがあるなら可能性高いです。薬は早めに始めた方がいいので」


「虫刺されじゃないの?」


「虫刺されならいいです。でも、その並び方はちょっと気になります」


男は困ったように発疹を見る。


「放っといたら治らない?」


「治ることもありますけど、痛みが長く残ることがあります。年齢上がるほど残りやすいので、診てもらった方がいいです」


「俺まだ四十三なんだけど」


「四十三でもなりますよ」


「……詳しいね」


男が笑った。


キョウもそこで初めて、自分がかなり喋っていたことに気づいた。


「まあ……少し」


それ以上は言わなかった。


男はスマートフォンを取り出し、近くの皮膚科を調べ始めた。


「今日午後もやってるな。じゃあ、ここ終わったら行ってみる」


「そうしてください」


「カメラの金がそのまま診察代になりそうだな」


査定が終わり、男は金を受け取った。


帰り際、もう一度キョウを見る。


「ありがとう。全然気にしてなかった」


「まだ帯状疱疹って決まったわけじゃないですから。ちゃんと病院で診てもらってください」


「はいはい、先生」


冗談っぽく言って、男は出ていった。


戸が閉まる。


店主は何も言わず、カウンターを片づけ始めた。


キョウも帳簿に客の情報を書き込む。


書き終わってから、ペンが止まった。


さっきの男とのやり取りを思い返す。


男が痛いと言った瞬間には、次に聞くことがもう頭に浮かんでいた。発疹を見たときも、どこを確認すればいいのか分かっていた。


以前から、自分に医学の知識があることは知っている。


痛みを失った男が来たときも、その危険性はすぐ分かった。薬を飲み続けて頭痛を起こしていた女を見たときも、病院へ行くよう勧めた。


だから、知識があること自体は今さらだった。


ただ今日は、それとは少し違った。


知っている、というより。


慣れていた。


キョウは自分の手を見る。


男の発疹を見るためにしゃがんだときも、触れる前に手を止めたときも、何も考えていなかった。


何度もやったことがあるように、身体が勝手に動いた。


「どうしたの?」


店主の声で、キョウは顔を上げた。


「いや」


「ぼーっとしてたけど」


「何でもないです」


店主はそれ以上聞かなかった。


それが逆に、少し気になった。


キョウは再び帳簿を見る。


自分がどこで医学を学んだのかは知らない。


どれくらい学んだのかも知らない。


それを仕事にしていたのかさえ、覚えていない。


ただ知識だけが残っている。


キョウはもう一度、自分の手を見た。


初めてやったことだとは、どうしても思えなかった。


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