21話 ???
その日は、朝から普通の客しか来ていなかった。
時計が一つ、指輪が二つ。昼を過ぎてから来た四十代くらいの男も、カメラを預けたいというだけだった。
「売るわけじゃないんです。来月には給料入るんで、それまで」
男はそう言って、古いカメラをカウンターへ置いた。
店主が手袋をつけ、状態を確認し始める。キョウは横で帳簿を用意していたが、男が何度も脇腹のあたりを掻いていることに気づいた。
最初は気にしていなかった。
ただ、少しするとまた掻く。
そのたびに顔をしかめている。
「痒いんですか」
キョウが聞くと、男は脇腹から手を離した。
「ああ、これ? なんか虫に刺されたみたいで」
「いつからです?」
「一昨日くらいかな」
「痛くないですか」
男が少し驚いた顔をした。
「痛い。なんで分かったの?」
その言葉を聞いた瞬間、キョウは男の方へ身体を向けていた。
「どんな痛みです?」
「どんなって……ピリピリする感じ。服が擦れると痛いかな」
「片側だけですか」
「多分」
「ちょっと見てもいいですか」
男は不思議そうにしながら、シャツを少し持ち上げた。
脇腹に赤い発疹があった。
小さな水疱がいくつかまとまって、それが横に並ぶように広がっている。
キョウは自然にしゃがんだ。
「反対側にもあります?」
「いや、こっちだけ」
「背中の方まで続いてます?」
男がシャツをもう少し上げる。
赤い発疹は脇腹から背中へ伸びていた。
キョウは触らなかった。
「熱は?」
「ないと思う」
「だるさとか」
「昨日ちょっと。でも仕事だったし、そのせいかも」
「最初に痛くなって、そのあと発疹が出ました?」
男は少し考えた。
「ああ、そうかも。最初、筋肉痛だと思ったんだよ。次の日見たら赤くなってて」
「皮膚科行った方がいいですよ」
キョウは立ち上がった。
「今日行けるなら今日」
男が目を丸くする。
「そんなヤバいやつ?」
「たぶん帯状疱疹だと思います」
店主がカメラから顔を上げた。
男も自分の脇腹を見る。
「帯状疱疹?」
「水疱が片側だけにまとまって出てて、その前からピリピリした痛みがあるなら可能性高いです。薬は早めに始めた方がいいので」
「虫刺されじゃないの?」
「虫刺されならいいです。でも、その並び方はちょっと気になります」
男は困ったように発疹を見る。
「放っといたら治らない?」
「治ることもありますけど、痛みが長く残ることがあります。年齢上がるほど残りやすいので、診てもらった方がいいです」
「俺まだ四十三なんだけど」
「四十三でもなりますよ」
「……詳しいね」
男が笑った。
キョウもそこで初めて、自分がかなり喋っていたことに気づいた。
「まあ……少し」
それ以上は言わなかった。
男はスマートフォンを取り出し、近くの皮膚科を調べ始めた。
「今日午後もやってるな。じゃあ、ここ終わったら行ってみる」
「そうしてください」
「カメラの金がそのまま診察代になりそうだな」
査定が終わり、男は金を受け取った。
帰り際、もう一度キョウを見る。
「ありがとう。全然気にしてなかった」
「まだ帯状疱疹って決まったわけじゃないですから。ちゃんと病院で診てもらってください」
「はいはい、先生」
冗談っぽく言って、男は出ていった。
戸が閉まる。
店主は何も言わず、カウンターを片づけ始めた。
キョウも帳簿に客の情報を書き込む。
書き終わってから、ペンが止まった。
さっきの男とのやり取りを思い返す。
男が痛いと言った瞬間には、次に聞くことがもう頭に浮かんでいた。発疹を見たときも、どこを確認すればいいのか分かっていた。
以前から、自分に医学の知識があることは知っている。
痛みを失った男が来たときも、その危険性はすぐ分かった。薬を飲み続けて頭痛を起こしていた女を見たときも、病院へ行くよう勧めた。
だから、知識があること自体は今さらだった。
ただ今日は、それとは少し違った。
知っている、というより。
慣れていた。
キョウは自分の手を見る。
男の発疹を見るためにしゃがんだときも、触れる前に手を止めたときも、何も考えていなかった。
何度もやったことがあるように、身体が勝手に動いた。
「どうしたの?」
店主の声で、キョウは顔を上げた。
「いや」
「ぼーっとしてたけど」
「何でもないです」
店主はそれ以上聞かなかった。
それが逆に、少し気になった。
キョウは再び帳簿を見る。
自分がどこで医学を学んだのかは知らない。
どれくらい学んだのかも知らない。
それを仕事にしていたのかさえ、覚えていない。
ただ知識だけが残っている。
キョウはもう一度、自分の手を見た。
初めてやったことだとは、どうしても思えなかった。




