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20話 信じることから


レイが店にいたのは、前日の話があったからだった。


いつものように何となく居座っているだけにも見えたが、今日はスマートフォンを眺める時間が少なく、ときどき入口の戸へ視線を向けている。昨日聞いたという団体について、店主は「様子見」と言った。それでもレイなりに気になっているらしい。


キョウも同じだった。


「結局、あの団体について何か分かったんですか」


「昨日言った分くらい。名前はあるみたいだけど、別に大きな宗教じゃないよ。人づてに集まって、悩みを聞いて、救われるための考え方を教える。今のところはそんな感じ」


「献金も取るんですよね」


レイはカウンターに肘をついた。


「でも、それだけなら珍しくもないんだよね」


「珍しくないんですか」


「困ってる人の話を聞いて、寄付してもらうところなんていくらでもあるでしょ。問題は、なんでわざわざこの店を教えてるか」


キョウもそこが引っかかっていた。金が目的なら理由は分かる。普通なら大金を用意できない人間でも、この店なら身体や感情や記憶を売れば金を作れる。団体にとっては、財布の中身ではなく、その人自身を金に換えさせられるようなものだ。


「店主は気にしてませんけどね」


キョウが奥を見ると、店主は棚の箱を拭いていた。


「聞こえてるよ」


「聞こえるように言いました」


「客が増えるのはいいことだからね」


「またそれですか」


店主は笑うだけだった。


レイが小さくため息をついた。


「昨日からずっとそれ」


「レイさんは気になるんですね」


「私の仕事と似たことされてるから」


「嫌なんですか」


「別に」


答えるのが少しだけ早かった。


キョウが見ると、レイもこちらを見る。


「何」


「いや」


「言いたいことあるなら言えば?」


「気に入らないんだなと思って」


「違うよ」


「そうですか」


「そうだよ」


そのとき、戸が開いた。


二人とも同時に入口を見る。


入ってきたのは三十代くらいの女だった。薄い色のコートを着て、両手で鞄を抱えている。少し緊張しているようだったが、店内を見て戸惑う様子はなく、真っ直ぐカウンターまで来た。


「ここで、気持ちを預かってもらえるって聞いたんですけど」


キョウとレイが目を合わせた。


店主だけがいつも通り笑った。


「預かるよ。何を?」


女は少し迷ってから答えた。


「疑う気持ちです」


キョウの手が止まった。


レイは何も言わなかったが、先ほどまでよりわずかに姿勢を起こした。


「疑う気持ち?」


店主が聞き返す。


「はい。人を疑ったり、本当にこれでいいのかなって考えたりする気持ちです」


「結構広いね」


「なくせますか」


「できるよ。でも特定の誰かだけを疑わなくする、というのは難しい。君が持っている『疑う』という感覚そのものになる」


女は頷いた。


どうやら、その説明もある程度予想していたらしい。


キョウは女を見る。


「それ、なくして大丈夫なんですか」


店主が一瞬こちらを見たが、止めはしなかった。契約を拒む言葉ではなく、確認程度なら許されるらしい。


女は少し困ったように笑った。


「むしろ、それがあるから苦しいんです」


「何かあったんですか」


「ずっと人を信じられなくて」


女は鞄を握り直した。


離婚したのは二年前だった。夫に何度も嘘をつかれ、それから他人の言うことを素直に受け取れなくなった。仕事でも誰かに褒められれば裏があるのではないかと思い、友人に誘われても何か目的があるのではないかと考えるようになったという。


そんなとき、今通っている集まりを知った。


「みんな、すごく優しくしてくれたんです。話も聞いてくれて、私が悪いんじゃないって言ってくれて」


キョウは黙って聞いた。


「でも、やっぱり疑っちゃうんです。この人たちも本当は何か目的があるんじゃないかとか、こんなに親切なのはおかしいんじゃないかとか」


レイが口を開いた。


「それ、誰かに相談した?」


女はレイを見る。


「しました」


「その集まりの人に?」


「はい」


「何て言われたの?」


少し間があった。


女は、教えられた言葉を思い出すようにゆっくり答えた。


「疑う心は、過去に傷ついた自分を守るためにできたものだけど、もう必要ないんだって。救われたいなら、まず信じることから始めないといけないって」


レイの表情が消えた。


キョウにも分かった。


「それで、この店を?」


「教えてもらいました。どうしても手放せないものには、手放す方法があるって」


「疑う気持ちを売れって言われたんですか」


キョウが聞く。


女は首を振った。


「そこまでは。何を手放すかは、自分で決めなさいって。ただ、私の場合はこれが一番邪魔なんじゃないかって、一緒に考えてくれました」


レイが小さく息を吐いた。


昨日聞いた話と同じだった。


誰も命令していない。


何を売るかは本人が決める。


ただし、その答えに辿り着くまでを手伝っている。


店主が女に聞いた。


「預かり? 買取?」


「買取でお願いします」


「戻したくなるかもしれないよ」


「大丈夫です」


「人を疑えなくなる。知らない人に何か言われても、本当かどうか疑う気持ちはかなり弱くなる。おかしな話を聞いても、それを一度立ち止まって考えるのが難しくなるかもしれない」


「それでいいです」


女は即答した。


「私、もう疑うのに疲れたんです」


店主はそれ以上何も言わなかった。


査定額を紙に書く。


女は数字を見て少し驚いた。


「こんなに?」


「長く君を守ってきたものだからね」


その言葉に、女は一瞬だけ黙った。


キョウは、その一瞬を見逃さなかった。


迷っている。


まだ疑えている。


この契約が本当に自分のためなのか、ほんの少しだけ考えている。


しかし女はすぐに顔を上げた。


「お願いします」


指が押された。


店主が金を渡す。


女は封筒を鞄にしまった。


レイが何気ない声で聞いた。


「そのお金、何に使うの?」


女は少しだけ笑った。


「一部は生活に使います」


「残りは?」


「お世話になった人たちに」


キョウとレイはまた目を合わせた。


「寄付?」


「献金っていう言い方はしてません。活動を続けてもらうための支援です」


「どれくらい?」


「まだ決めてないです。でも、私はあの人たちに助けてもらったので」


女はそう言って立ち上がった。


「効くのは外に出てからだよ」


店主が言う。


「分かりました」


女は深く頭を下げ、店を出た。


戸が閉まる。


しばらく誰も話さなかった。


最初に口を開いたのはキョウだった。


「……レイさん」


「うん」


「あれ、金だけだと思います?」


「思わない」


返事は早かった。


キョウも同じだった。


「疑う気持ちをなくしたら、あの人」


「今よりずっと信じやすくなる」


「団体のことも」


「多分ね」


店主は棚に新しい箱を置いていた。


『疑念』


そう書かれている。


キョウはそれを見る。


「偶然じゃないですよね」


「まだ一人だから何とも言えない」


レイはそう言いながらも、声にはほとんど迷いがなかった。


「でも、昨日聞いたのは『質屋を教えて金を献上させる』って話でした。今日の人は、それだけじゃない」


「そうだね」


レイはカウンターの上で指を動かした。


「金が欲しいだけなら、もっと高いものを売らせればいい。腕でも目でも、場合によっては記憶でもいい」


「でも、それだと目立つ」


キョウが言った。


「腕が動かなくなったり、目が見えなくなった人が何人も同じ団体にいたら、不自然です」


「それもある」


レイは頷いた。


「それに身体を失ったら、団体に来られなくなるかもしれない」


「じゃあ感情とか?」


「人から見えないからね」


キョウは棚を見る。


疑う気持ち。


もしこれを失えば、他人の言葉をそのまま受け入れやすくなる。


「……まさか」


キョウは嫌な想像をした。


「何?」


「売らせるもの自体を選んでるんじゃないですか」


レイは答えなかった。


「団体に入り込みやすくなるようなものを」


「可能性はあるね」


「疑う気持ち以外なら?」


レイは少し考えた。


「家族への未練とか」


キョウは顔を上げる。


「反対してる家族がいるなら、それを手放せば戻る場所が減る」


「不安とか恐怖も?」


「怖くなくなれば、普通ならやらないこともできるかもしれない」


「罪悪感」


「何かをさせたいなら便利かもね」


二人とも黙った。


話せば話すほど、嫌な方向に広がっていく。


キョウは棚を見た。


今までこの店は、来た人間の人生を変えてきた。


その結果は本人にも、店主にも完全には分からない。


でももし、結果を狙って売るものを選ばせる人間がいたら。


「この店、人を作り変えるのにも使えるんですね」


キョウが言った。


レイがこちらを見る。


「今さら気づいた?」


「そういう意味で言ったんじゃないです」


「分かってる」


レイの声は珍しく真面目だった。


「でも、まだ決めつけない方がいいよ。今日の人がたまたまそうだっただけかもしれない」


「レイさん、そう思ってます?」


「思ってない」


キョウはため息をついた。


「じゃあ何で言ったんですか」


「一応ね」


奥から店主の声がした。


「二人とも楽しそうだね」


「どこがですか」


キョウが睨む。


レイは店主を見る。


「どうする?」


「何を?」


「もし本当に、あそこが人を都合よく変えるために客を送り込んでるなら」


店主は少し考えた。


「まだ様子見かな」


「また?」


「今のところ、契約してるのは本人だからね」


キョウは納得できなかった。


「誘導されてても?」


「誘導されてるかもしれない、でしょ」


「今日の話聞いてたじゃないですか」


「聞いてたよ」


「じゃあ」


「だから、もう少し見ればいい」


店主は棚の『疑念』の箱を指で軽く押し、位置を揃えた。


「本当に同じところから来た客が、似たようなものばかり売り始めたら、それは偶然じゃないだろうからね」


レイが少し笑った。


「それ、調べろってこと?」


「私はそんなこと言ってないよ」


「でも止めない?」


「止めない」


レイはキョウを見る。


「じゃあ、やる?」


「何をですか」


「あそこから来たっぽい客が、何を売りに来るか見る」


「どうやって」


「キョウはここにずっといるでしょ」


「まあそうですけど」


「私は外を見る。キョウは中を見る。それでいいじゃん」


キョウは少し考えた。


自分は店から出られない。


団体を直接調べることはできない。


でも、ここへ来た人間なら見られる。


何を売りたがったのか。


誰に教えられたのか。


売った金をどこへ持っていくのか。


「怪しいと思った客は覚えとけばいいんですね」


「うん。できれば何を売ったかも」


「帳簿見れば分かります」


「じゃあ楽だね」


キョウが店主を見る。


「これ、いいんですか」


店主は笑った。


「好きにすれば?」


「止めないんですね」


「二人が調べてくれるなら、私は結果を聞くだけで済むし」


キョウは顔をしかめた。


「利用されてません?」


「この店にいる時点で今さらじゃない?」


否定できなかった。


キョウは帳簿を開いた。


ここ数日で来た客の名前を一人ずつ確認する。


誰が団体から来たのかは分からない。


けれど、これからは見るものが一つ増えた。


客が何を失いたがっているのか。


その人自身が本当にそれを嫌っているのか。


それとも、誰かに「それがあなたを苦しめている」と教えられたのか。


そういえば、女性が言っていた「救われたいなら、まず信じることから始めないといけない」という言葉、どこかで聞いたような。


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