19話 予兆
ここ数日、客が増えていた。
それ自体は悪いことではない。少なくとも店主にとっては。
以前なら一日誰も来ないことも珍しくなかったのに、最近は午前と午後に一人ずつ、日によっては三人、四人と戸が開く。もちろん普通の質屋として時計や指輪を持ち込む客もいたが、増えたのはそちらではなく、記憶や感情、身体の一部を金に換えようとする客だった。
「最近、多くないですか」
午前中に二人目の客を見送ったあと、キョウは帳簿を書きながら言った。
「何が?」
店主は棚に新しく増えた箱を置いていた。
「客ですよ」
今日最初に来た女は、夫と別れるための金が必要だと言って思い出の一部を売った。二人目の男は仕事を失い、生活費のために「自信」を預けようとして、結局金額に納得できず帰っていった。
少し前までは、こういう客はぽつぽつと来る程度だった。
「繁盛してるんじゃない?」
店主は嬉しそうだった。
「レイさんが頑張ってるんですかね」
「どうだろうね」
「店主が知らないんですか」
「レイが外で何してるか、全部報告してくれると思う?」
思わなかった。
そもそも、レイがどこへ行っているのかすらキョウはほとんど知らない。数時間で戻ってくることもあれば、何日も姿を見せないこともある。聞いても「仕事」としか答えないし、その仕事の半分くらいは本当に仕事なのか怪しい。
ただ、最近の客には少し共通点があった。
店の存在をどこで知ったのか聞くと、揃って曖昧な答えをする。
「人から聞いた」
「知り合いが言っていた」
「困っているなら行ってみろと言われた」
レイのやり方にも似ている。
だからキョウも、深く考えていなかった。
昼を過ぎた頃、戸が開いた。
「ただいま」
レイだった。
いつものように勝手にカウンターの内側へ回ってくる。ただ、今日は座らず、そのまま店主の前まで行った。
「ちょっと変なの聞いた」
店主が棚から振り返る。
「いつも通りじゃん」
「今回は店の話」
キョウも顔を上げた。
「うちですか?」
「たぶん」
レイはようやく丸椅子に座った。
「最近、客増えてるでしょ」
キョウと店主が目を合わせる。
「やっぱりレイさんじゃなかったんですか」
「私じゃないよ。最近サボってるし」
「じゃあ、何で」
レイは鞄からペットボトルを取り出して、一口飲んだ。
「駅から結構離れたところに、宗教っぽい集まりがあるんだって。大きいところじゃないよ。ビルの一室借りて、週に何回か集会してるくらい」
「宗教っぽい?」
「本人たちは宗教って言ってないらしいけどね。人生相談とか、心の救済とか、そういうの」
店主が笑った。
「救済ね」
「借金してる人とか、家族とうまくいってない人とか、病気で仕事できなくなった人とか。そういう困ってる人を集めて話を聞いてるらしい」
そこまでは、珍しい話でもなかった。
キョウは続けて帳簿を書こうとしたが、レイが次に言った言葉で手を止めた。
「で、その人たちに質屋のこと教えてる」
「……うちの?」
「たぶんね」
店主は表情を変えなかった。
「何て?」
「『あなたの苦しみにも価値があります』って」
キョウは眉を寄せた。
レイは少し声色を変えた。
「『世の中には、人には見えないものを買い取ってくれる場所があります。あなたが不要だと思っているものも、お金に換えることができます』」
「それ……」
聞き覚えがあった。
今日来た女も、似たようなことを言っていた。
何を売れば金になるのか。
自分にも価値のあるものがあるのか。
少し前に来た客の中にも、最初から金に換えることだけを目的にしていた人間が何人かいた。
「最近客が増えたの、それですか」
「多分」
レイは頷いた。
「私も最初は偶然かなと思ったんだけど、今日ちょっと聞き回ったら、何人か同じ話してた」
「でも、教えるだけなら」
キョウが言うと、レイがこちらを見る。
「そのあとがある」
嫌な予感がした。
「質屋で金を作れた人は、その団体に献金するんだって」
「……どのくらい」
「人によるみたいだけど、半分とか。ほとんど渡した人もいるって話」
キョウは帳簿を閉じた。
「それ、完全に利用してるじゃないですか」
「そう見えるね」
レイはあっさり答えた。
「何を売れって言ってるんです?」
「そこまでは言わないらしいよ」
「言わない?」
「腕を売れとか、記憶を売れとか、具体的なことは言わない。『何を手放すかはあなた自身が決めることです』って」
レイは指先でカウンターを軽く叩いた。
「その辺は上手いよね。本人が決めた形になる」
キョウは店主を見る。
「止めないんですか」
店主は椅子に座ったまま、少し首を傾げた。
「何を?」
「その団体ですよ。うちを使って金を集めてるんでしょう?」
「うちの名前を出してるの?」
レイが首を振る。
「名前は出してないみたい。『駅の裏の方に、何でも預かる質屋がある』くらい」
「じゃあ別にいいんじゃない?」
「よくないでしょう」
キョウは思わず強い声を出した。
「悩んでる人をここに連れてきて、何か売らせて、その金を持っていくんですよ」
「連れてきてはいないみたいだよ」
レイが言った。
「場所を教えるだけ。来るかどうかも、何を売るかも本人次第」
「それでも」
「キョウ」
店主が笑った。
「それを言ったら、レイも似たようなものじゃない?」
レイの顔から少しだけ笑みが消えた。
「一緒にしないでよ」
珍しく、返事が早かった。
店主が面白そうに見る。
「違う?」
「違う。私は店があるって教えるだけ。売った金を持ってこいなんて言わないし、何を売ればいいかも決めない」
「でも、来るように噂は撒く」
「本人が本当に手放したいものがありそうなときだけね」
キョウは二人を見る。
似ている。
確かに外から見れば、かなり似ている。
困っている人間に、この質屋の存在を知らせる。
でも何かが違う。
店主はしばらくレイを見たあと、笑った。
「まあ、確かに違うか」
「何」
「レイは入口を教えるだけだからね」
店主は指先でカウンターを軽く叩いた。
「あっちは出口で待ってる」
レイは少しだけ目を細めた。
キョウには、その言い方が妙にしっくりきた。
「どれくらい前からやってるんですか」
「分かんない。でも最近始めたんじゃないかな。客増えたのもここ一、二週間でしょ」
キョウは最近の帳簿を開いた。
確かに増えている。
理由もなく急に人が集まり始めたわけではなかったらしい。
何人かの名前を見て、キョウは考える。
あの女も、あの男も。
もしかすると、店を出たあと金を持ってその団体へ行ったのかもしれない。
何か大切なものを失って手に入れた金を、そのまま誰かに渡したのかもしれない。
「調べる?」
レイが店主に聞いた。
「もう少し詳しく見てくるけど」
店主は少し考えた。
キョウは当然、すぐに頷くと思っていた。
しかし店主は、
「いや」
と言った。
「とりあえず様子見でいいよ」
「放っておくの?」
「今のところ、うちの商売を邪魔してるわけじゃないからね」
「むしろ客増えてるし?」
レイが言う。
「そういうこと」
キョウが睨む。
「冗談だよ」
「本当ですか」
「半分くらい」
やはり冗談ではないらしい。
レイは椅子の背に身体を預けた。
「じゃあ私は何もしなくていい?」
「気にしておくくらいでいいよ。名前とか、人数とか、何をしてるのか分かったら教えて」
「それ、普通に調べろってことじゃん」
「レイなら勝手に調べるでしょ」
レイは否定しなかった。
キョウは納得できなかった。
「何か起きてからじゃ遅くないですか」
店主は棚を見る。
そこには、ここ数日で増えた箱も混ざっていた。
「何かが起きてるかどうかも、まだ分からないよ」
「でも」
「客は自分でここに来て、自分で売るものを決めて、自分で契約してる」
店主はいつもの笑顔だった。
「その後、金を誰に渡すかまで、私は決められないからね」
キョウは何も言えなかった。
理屈だけなら、その通りだった。
ただ、それで終わらせていいとは思えない。
レイも今日はいつものように茶化さなかった。
しばらく三人とも黙っていた。
やがて、店主が新しく増えた箱の位置を少しだけ直した。
「まあ」
その声だけは楽しそうだった。
「うちを利用しようとしてるなら、それはそれで面白い」
キョウが顔を上げる。
「面白いで済ませるんですか」
「今はね」
店主は箱から手を離した。
「向こうが何をしたいのか、もう少し見てから考えよう」
レイが小さく笑った。
「じゃあ、様子見?」
「様子見」
キョウだけは笑えなかった。
最近増えた客には、理由があった。
この店を見つける人間が増えたのではない。
この店へ送り込む人間が、どこかにいる。
キョウは入口の戸を見る。
その向こうには、この店の存在を知っている人間が、自分たちの思っていた以上に増えているのかもしれなかった。




