18話 新たな客
レイが店に来たのは、昼を少し過ぎた頃だった。
最近は本当によく来る。今日も「ただいまー」と言いながら戸を開け、誰に許可を取るでもなくカウンターの内側へ回ると、キョウの隣の丸椅子に座った。
「今日は何もないんですか」
キョウが聞くと、レイは鞄を膝の上に置きながら首を傾げた。
「何が?」
「食べ物」
「期待してるじゃん」
「してません。この前も饅頭持ってきたから聞いただけです」
「今日はないよ」
「別にいいです」
「残念そう」
「だから違いますって」
レイは笑って、丸椅子の上で足を組んだ。前に遠出すると言っていた頃と比べると、最近は店にいる時間が明らかに増えている。とはいえ、仕事をしている様子はほとんどない。店主と話しているか、スマートフォンを触っているか、客が来れば横から面白そうに見ているだけだ。
キョウは帳簿に目を戻した。少し前なら、レイが店にいようがいまいが気にも留めなかったと思う。ただ最近は、客が帰った後に誰かがいることを少しだけありがたく感じることがあった。
前に来た男のことも、まだ頭に残っている。
「ちょっと前に、変な客が来たんです」
「この店、変じゃない客の方が珍しくない?」
「そうですけど」
キョウは、五百万円が必要だと言って来た男の話をした。何を預ければ高くなるのか相談し、腕も目も失いたくないと言って、最後には家族への愛情を売ったこと。家を守るために必要だった金なのに、その理由になっていた愛情そのものを手放したこと。
レイは珍しく、途中で茶化さずに聞いていた。
「店主は最初から分かってたみたいなんです。愛情がなくなったら、家を守る理由までなくなるって」
「まあ、分かるだろうね」
「レイさんもそう思います?」
「話だけ聞けば」
レイはあっさり答えた。
「じゃあ、止めますか」
「私が?」
「もしその場にいたら」
レイは少し考えたあと、首を振った。
「止めないかな。本人が腕も目も嫌で、代わりにそれを選んだんでしょ」
予想していた答えだった。それでもキョウは少しだけ顔を曇らせた。
「また気にしてるの?」
「気にしますよ」
「全員のその後まで考えてたら疲れるよ」
「レイさんは考えないんですか」
「たまには考える」
「たまに?」
「たまに」
それ以上は言わなかった。
キョウは帳簿を閉じた。
「僕、この仕事向いてないですね」
「今さら?」
「知ってます」
「じゃあ辞めれば?」
「辞められないこと知ってるでしょう」
「うん」
レイは笑った。
「性格悪いですね」
「それも知ってるでしょ」
キョウはため息をついた。こうしてどうでもいいやり取りをしている方が楽だった。誰かが自分の大切なものを売り、店を出た後に人生がおかしくなっていく話を考えているより、レイが何となく持ってきた饅頭の味について文句を言っている方がずっといい。
レイがその顔を見て、少しだけ首を傾げた。
「次来るとき、何かあったら持ってくるよ」
「何かって?」
「食べ物。外で余計に買ったりしたら」
「余計に買ったら、ですか」
「わざわざキョウのために買うとは言ってないよ」
「分かってます」
そのとき、戸が開いた。
キョウは反射的に帳簿を開く。
入ってきたのは、五十代くらいの男だった。上等なコートを着ていて、店内を見回すこともなく真っ直ぐカウンターへ来る。初めて来た人間の動きではなかった。
「あれ」
レイが小さく言った。
男もレイに気づく。
「今日はいるんだ」
「たまたまね」
二人は知り合いらしい。
キョウが男を見ると、男もこちらを見た。
「君が新しい店員?」
「新しいというほどでもないですけど」
「そうか」
男はそれ以上キョウには興味を示さず、店主に向かって言った。
「何か入った?」
「久しぶりに来てそれ?」
店主が笑う。
「前に来たのいつだっけ」
「さあ?覚えてないね。でも、そのときは結局買わなかっただろ」
「そうだったね」
男は棚の方を見る。
「今回は買うつもりで来たよ。才能、何か入ってない?」
キョウは言葉の意味がすぐには分からなかった。
レイだけが普通の顔をしている。
「才能なら、ちょうど一つ入ったよ」
店主が棚へ向かう。
キョウは思わず聞いた。
「買う?」
男が振り返った。
「そうだけど」
「何をですか」
「才能」
男は当然のことのように答えた。
店主が棚から一つの箱を取り出した。
キョウには見覚えがあった。
少し前、絵の才能を売った女のものだ。一度は才能を失ったことを喜び、その後、自分が本当に嫌だったのは才能ではなかったと気づいて買い戻しに来た。店主が提示した金額を払えず、結局そのまま帰っていった。
「絵か」
男は箱を見る。
「どの程度?」
「幼い頃から賞を取ってる。美術系の学校を通って、美大まで行ってるよ。元々の感覚はかなりいい」
「技術は?」
「それは付かない」
「分かってるよ」
男は少し呆れたように言った。
「前にも聞いた。買った瞬間に手が勝手に動くようになるわけじゃないんだろ」
「そうだね」
「構図とか色を見る感覚とか、上達の速さみたいな部分だけ?」
「大体そんなところ」
男は箱を見ながら頷いた。
「十分だよ。技術なら後から身につけられる。才能がないまま十年やるより、才能を買って十年やった方がいい」
その言い方に迷いがなかった。
どうやら、この男は本当に仕組みを理解したうえで来ているらしい。
「絵を始めるんですか」
キョウが思わず聞いた。
「前から描いてるよ。趣味だけどね」
男は少し笑った。
「五年やっても大して上手くならないから、そろそろ時間を買おうと思って」
「時間?」
「才能がある奴が一年で分かることを、俺は五年かかっても分からない。その差を少し縮めたいだけだよ。絵そのものを買えるとは思ってない」
キョウは何も言えなかった。
今まで店に来た客は、何かを失いに来た人間ばかりだった。目の前の男は逆だ。自分に足りないものを手に入れるために金を持ってきている。
店主が金額を書いた紙を男の前へ出した。
男は一度見ただけだった。
「そのくらいならいい」
「相変わらず迷わないね」
「欲しいものの値段を聞いてから悩むくらいなら、最初から来ないよ」
「いい客だ」
店主が楽しそうに笑った。
キョウは箱を見る。
「あの」
「何?」
店主がこちらを見る。
「これ、売るんですか」
「そうだよ」
「でも、あの人は買い戻しに来ましたよね」
「来たね」
「それでも?」
店主は少し不思議そうな顔をした。
「買取だったからね」
その一言で終わりだった。
確かに、あの女は才能を売って店主が買った。だから今は店主のものだ。
分かってはいる。
でも、誰かが手放したものが別の誰かの中へ入るところまで想像したことはなかった。
男は棚を見ながら言った。
「他は?」
「今日は才能を買いに来たんじゃないの?」
「見るだけならタダだろ」
「まあね」
男の視線が棚の奥へ動いていく。
そして、七つ並んだ箱のところで止まった。
「あれは?」
キョウの身体がわずかに強張った。
店主は間を置かなかった。
「売り物じゃないよ」
男が店主を見る。
「珍しいな。あんたが売らない物なんてあるんだ」
「あるよ」
「流れてないの?」
「流れてる」
「じゃあ、もう店の物だろ」
「そうだね」
「だったら売れるじゃないか」
店主は笑った。
「売れることと、売ることは別だよ」
男は少し興味を持ったように棚の奥を見る。
「何が入ってる?」
「右目、左目、右腕、左腕、右脚、左脚。それと記憶」
キョウは店主を見る。
本人の前で普通に言わないでほしい。
「一人分?」
「そう」
「まとめてなら結構な値段になるな」
「値段をつける予定はないよ」
「何で?」
「持ち主と約束してるから」
男が初めてキョウを見る。
その視線が、自分ではなく商品を見るように感じられて、キョウはあまり良い気分がしなかった。
レイが小さな声で言う。
「よかったね」
「何がですか」
「右腕、買われなくて」
「本当に笑えないですよ」
「脚の方がいい?」
「そういう問題じゃないです」
男が少し笑った。
「君の?でも、手足動いてるじゃん」
「一時的に貸してるんだよ。そうしないと働けないでしょ」
店主が答えた。
男もそれ以上興味を示さず、絵の才能の箱へ視線を戻した。
店主が帳簿を出す。
今までとは逆だった。
客が金を受け取るのではなく、払う。
男は内容をほとんど確認せずに署名した。
「前と同じで、外に出てから?」
「そうだよ」
「了解」
「すぐに何か変わった感じはしないと思うけどね」
「知ってる。今日から急に画家になるつもりもないよ」
男は笑った。
「帰ったら、とりあえず同じデッサンをもう一回やってみる。前と何が違って見えるか試したい」
店主が箱に手を置いた。
次の瞬間、箱は消えた。
男は自分の手を見たわけでも、周囲を驚いて見回したわけでもなかった。ただ立ち上がり、コートを整えた。
「次、音楽系が入ったら教えて」
「予約は受け付けてないよ」
「じゃあまた覗きに来る」
男はそう言って店を出た。
戸が閉まったあとも、キョウはしばらく棚を見ていた。
絵の才能が置かれていた場所だけが空いている。
「売るんですね」
「売るよ」
店主は帳簿を閉じた。
「だから人から色々買うんだ」
「全部?」
「全部ではないよ。預かり期間中のものは当然売れない。買取品か、期限が切れて完全に流れたものだけ」
キョウは棚を見る。
痛み。悲しみ。罪悪感。知識。それ以外にも、自分が来る前からある箱がいくつも並んでいる。
「じゃあ、痛みとか悲しみも売れるんですか」
「欲しい人がいればね」
「そんなもの、誰が欲しがるんですか」
店主は笑った。
「そのうち来るかもしれないよ」
「何のために?」
「買う人には、買う人の理由がある」
レイが隣で棚を眺めていた。
「捨てたい人がいるなら、欲しい人もいるんじゃない?」
「悲しみまで?」
「何も感じない人なら、悲しいってどんな感じか知りたいかもしれないし」
キョウにはまだ理解できなかった。
ただ、この店で理解できないと思ったことは、いつも後になって誰かが実際にやって見せる。
キョウは棚の一番奥を見る。
自分の七つの箱。
「僕のは、本当に売らないんですよね」
「売らないよ」
店主は即答した。
「流れてるのに?」
「流れていても」
店主は棚の奥へ視線を向けた。
「君がここで働いて買い戻す間は、誰にも売らずに保管する。それが契約だからね」
レイが言う。
「この人、性格は悪いけど契約だけは守るよ」
「君に言われたくないな」
店主が笑った。
キョウはもう一度、棚を見る。
今までは、ここを誰かが捨てたものの墓場のように思っていた。
でも違う。
あの箱は、ただ置かれているわけではない。
誰かが要らないと言ったものを、別の誰かが欲しいと言って金を払う。
ここは保管庫であり、店だった。
キョウは空いた棚の一角を見る。
誰かが手放した才能は、今日から知らない男の中にある。
この質屋について、自分はまだ半分も知らないのかもしれなかった。




