17話 意味
「金が欲しいんです」
男は椅子に座るなり、そう言った。
「何を預ければ、一番高くなりますか」
キョウは帳簿を開こうとしていた手を止めた。
今までにも金を目的に来た客はいたが、大抵は預けたいものを決めていた。腕を差し出す人間も、記憶を売る人間も、自分が何を手放すのかだけは分かって店に来る。
この男は違った。
金額だけを決めて、失うものを今から選ぼうとしている。
店主は楽しそうに笑った。
「いくら必要なの?」
「五百万です」
「結構いるね」
男は三十代後半くらいだった。スーツは着ているが、袖口は少しくたびれていた。
四か月前に仕事を辞めたらしい。勤めていた会社の業績が悪くなり、退職を勧められた。次の仕事はすぐに見つかると思っていたが、思うようにはいかなかった。
貯金を崩し、それでも足りなくなって金を借りた。
妻には再就職までの一時的な借金だとしか話していない。
家のローンも残っている。娘は来年、中学生になる。
返済のために別のところから借りるようになり、このままでは家を手放すことになるという。
「奥さんは、そのことを?」
店主が聞いた。
「知りません」
「借金を?」
「はい」
「言えばいいのに」
男は少し顔をしかめた。
「言ったら、家を売ろうって言われます」
「それじゃ駄目なの?」
「駄目です」
即答だった。
娘が生まれる前に買った家だという。壁紙は妻が選び、庭には男が植えた木がある。リビングの柱には、娘の身長を測った線がいくつも残っている。
「ここだけは失いたくないんです」
店主は頷いた。
「それで、自分の何かを売って五百万作ろうと?」
「売るかどうかも含めて、相談したくて」
「なるほど」
店主は男を眺めた。
「じゃあ査定してみようか」
男の表情が少し明るくなった。
「例えば利き腕」
店主が男の右腕を見る。
「若いし、状態も悪くない。五百万なら十分届くよ」
男は反射的に右腕を押さえた。
「……動かなくなるんですよね」
「そうだね」
「それは嫌です」
「じゃあ片目」
「見えなくなる?」
「もちろん」
「それも嫌です」
「片脚なら?」
「嫌です」
男の答えは早かった。
キョウは帳簿を開いたまま、そのやり取りを見ていた。
五百万が必要だと言う割には、自分の身体を失うつもりはないらしい。
店主は面白そうに男を見ていた。
「なるほど。金は欲しい。でも身体は失いたくない」
「当たり前でしょう」
「当たり前かどうかは人によるよ」
「もっと、生活に影響がないものはないんですか」
「例えば?」
「それを聞きに来たんです。なくなっても困らなくて、五百万になるもの」
店主は少し考えるふりをした。
「味覚」
「五百万になります?」
「ならないね」
「嗅覚は?」
「もっと安い」
「昔の記憶とか」
「内容によるよ。君にとってどうでもいい記憶なら、こっちにとっても大して価値はない」
男は苛立ったように頭を掻いた。
「じゃあ何ならいいんですか」
店主が笑った。
「面白いことを言うね」
「何がですか」
「五百万の価値があるのに、君にとっては失っても惜しくないものを探してるんだろう?」
男は黙った。
「……そうです」
「そんな都合のいいもの、普通はないよ。価値があるから高いんだから」
男はそれでも立ち上がらなかった。
しばらくして、もう一度聞いた。
「本当に、何かないですか」
店主は男を見た。
顔から手元まで、値踏みするようにゆっくり視線を動かす。
「あるにはあるよ」
男が顔を上げた。
「何ですか」
「家族への愛情」
男の表情が止まった。
キョウも店主を見る。
「妻と娘がいるんだろう?」
「……います」
「大切?」
「当たり前でしょう」
「なら高いよ」
店主は帳簿に数字を書いて、男の前へ向けた。
五百万を大きく超えていた。
男は数字と店主を交互に見た。
「こんなに?」
「かなり大切にしてるみたいだからね。価値がある」
キョウは、その言い方が嫌だった。
時計や腕を査定しているときと、まるで変わらない。
男はしばらく数字を見ていた。
「愛情を売ったら、妻と娘のことを忘れるんですか」
「忘れないよ」
「妻と結婚したことも?」
「覚えてる」
「娘が生まれたことも、自分の娘だってことも?」
「全部残る」
「じゃあ、何がなくなるんですか」
店主は簡単に答えた。
「大切だと思う気持ちだけ」
男は黙った。
「妻が悲しんでいても、今までみたいに胸は痛まない。娘が笑っても、それを見て特別嬉しいとは思わない。それだけ」
「それだけって」
キョウが思わず言った。
店主がこちらを見る。
キョウは口を閉じた。
契約に口出しをしない。
それが約束だ。
男はもう一度、帳簿の数字を見た。
「でも、責任は残るんですよね」
「責任?」
「俺が父親だってことは分かる。妻と結婚してることも分かる。だったら愛情がなくても、家族としてやるべきことはできますよね」
店主は答えなかった。
男は自分に言い聞かせるように続けた。
「家を守るのだって、約束したことだからできます。別に、好きじゃなくなったからって、全部投げ出すわけじゃない」
「そうか」
男は何度か頷いた。
「買取で」
店主は帳簿を男の前へ出した。
「本当にいい?」
「はい」
「一度うちのものになったら、買い戻す値段は別だよ」
「分かってます」
男は指を押した。
店主が封筒を渡す。
「効くのは外に出てから」
男は封筒を鞄に入れ、戸を開けた。
外に出てすぐ、スマートフォンが鳴った。
妻からだった。
『今日、何時くらいに帰れる? 美咲が三人でご飯食べたいって』
俺は画面を見た。
娘の顔が浮かぶ。
最近は、俺が帰るのを待たずに寝ることが増えた。
昨日までなら、そのメッセージを見れば少しでも早く帰ろうと思った。
今日は何も思わなかった。
嫌いになったわけではない。
妻は妻、娘は娘だ。
ただ、それだけだった。
『八時くらい』
返信して、スマートフォンをしまった。
家に帰ると、娘が玄関まで来た。
「おかえり」
「ただいま」
娘が腕に抱きついた。
俺は一瞬、何をすればいいのか分からなかった。
それから、今までそうしていたから頭を撫でた。
「ご飯できてるよ」
妻が奥から顔を出した。
「うん」
三人で食卓につく。
娘が学校であったことを話して、妻が笑う。俺も必要なところでは笑った。
何も問題はない。
愛情がなくても、家族として振る舞うことはできる。
むしろ余計な感情がないぶん、冷静だった。
家を守る。借金を返す。再就職する。それでいい。
翌日、俺は銀行口座を確認した。
質屋でもらった金が入っている。
五百万を超える金。
これで家を守れる。
返済先の画面を開き、金額を入力したところで手が止まった。
俺はリビングを見回した。
柱には娘の身長を測った跡がある。
妻が選んだカーテン。
庭には、俺が植えた木。
昨日までは、それを見るたびにこの家を失いたくないと思った。
今日はただの家にしか見えない。
家を売ればローンは減る。
もっと安い部屋に住めばいい。
そもそも、どうして俺はここまでして、この家を残そうとしていたんだ。
答えは分かっている。
妻と娘が大切だったからだ。
でも、その気持ちはもうない。
俺は送金画面を閉じた。
それから一週間、金には手をつけなかった。
妻には、何とかなりそうだと言った。
嘘ではない。
金はある。
ただ、使う気になれない。
夜、一人で口座残高を眺めた。
この金があれば、別の街へ行ける。
小さな部屋なら何年か暮らせる。
再就職するまでの時間も作れる。
家を守るための金だった。
でも今、五百万を家のために使うことが急に馬鹿らしく思えた。
俺一人なら、この家はいらない。
妻のために残す理由もない。
娘のために借金を背負う理由もない。
「責任」
店ではそう言った。
愛情がなくても責任は果たせると。
でも、なぜ責任を果たさなければならないのだろう。
父親であることは変わらない。
でも、父親だから一生この家にいなければならないわけじゃない。
妻と結婚したことも覚えている。
でも、結婚したから離婚できないわけではない。
そんな当たり前のことを、今まで考えたこともなかった。
「話がある」
夕飯のあと、俺は言った。
妻がこちらを見る。
娘は自分の部屋にいた。
「家、手放そう」
妻は少し驚いたが、すぐに頷いた。
「……うん。その方がいいと思う」
「あと、離婚したい」
妻の顔が止まった。
「何?」
「一人になりたい」
「ちょっと待って。なんでそうなるの?」
「もう、ここにいる理由がないから」
「美咲は?」
「君が育てればいい」
妻はしばらく何も言わなかった。
「あなた、この前まで家を守るって」
「そうだったな」
「あの質屋に行ったのも、そのためでしょう?」
「そうだった」
「じゃあ、どうして?」
考えた。
自分でも説明するのは難しい。
「分からない」
俺は言った。
「今は、そこまでする理由がない」
妻の顔が歪んだ。
「何を売ったの?」
俺は答えなかった。
店のことは以前に話していた。
何を売ったのかまでは言っていなかった。
「何を売ったの」
もう一度聞かれた。
「君たちへの愛情」
妻は何も言わなかった。
ちょうどそのとき、廊下で音がした。
振り向くと、娘が立っていた。
聞いていたらしい。
「お父さん」
泣いていた。
俺は娘を見る。
泣いている。
悲しんでいることも分かる。
抱きしめた方がいいことも、謝った方がいいことも分かる。
でも、そうしたいとは思わなかった。
娘はしばらく俺を見てから、自分の部屋へ戻っていった。
妻が俺を見ている。
「本当に、何とも思わないの?」
俺は少し考えた。
「何も思わないわけじゃない」
人が泣いているのを見れば、良い気分はしない。
ただ。
「前とは違う」
妻は、その日から俺とほとんど話さなくなった。
《数日後》
店には客がいなかった。
キョウは帳簿を整理しながら、一つの項目で手を止めた。
家族への愛情。
買取済み。
「あの」
「何?」
「あの人、どうなったと思います?」
「どの人?」
「五百万欲しいって来た人です。家族への愛情を売った」
店主は棚を見る。
小さな箱が一つ置いてある。
「ああ」
「金、ちゃんと家のために使ったと思いますか」
店主は少し笑った。
「使ってないんじゃない?」
キョウは顔を上げた。
「どうして分かるんですか」
「だって」
店主は箱を手に取った。
「彼が家を守りたかったのは、家族を大切に思ってたからだろう?」
キョウは黙った。
「その家族への愛情を売ったんだ。家を残す気は無くなるよ」
「分かってたんですか」
「何が?」
「愛情を売ったら、その金を使う理由までなくなるって」
店主は何でもないことのように答えた。
「もちろん」
キョウは何も言えなかった。
「腕なら高いと言った。目でも足でも足りた。でも彼は嫌だと言った。だから、別の高いものを教えただけ」
店主は箱を棚に戻した。
「本人が失いたくないと思った腕や目より、家族への愛情の方が手放しやすかった。それだけだよ」
キョウは棚を見る。
男は五百万を手に入れた。
欲しかった金額より多い金を。
そのために、身体は何一つ失わなかった。
腕も動く。
目も見える。
足も歩ける。
ただ、その金が欲しかった理由だけを、この店に置いていった。
店主が帳簿を閉じた。
「人間って面白いよね」
キョウは答えなかった。
「欲しいものを手に入れるために、大事なものを売る。でも、大事なものを売ると、欲しかった理由までなくなることがある」
キョウは小さな箱を見た。
男が最初に聞いた言葉を思い出す。
何を預ければ、一番高くなりますか。
結局、一番高かったのは腕でも、目でもなかった。




