↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
17/53

17話 意味


「金が欲しいんです」


男は椅子に座るなり、そう言った。


「何を預ければ、一番高くなりますか」


キョウは帳簿を開こうとしていた手を止めた。


今までにも金を目的に来た客はいたが、大抵は預けたいものを決めていた。腕を差し出す人間も、記憶を売る人間も、自分が何を手放すのかだけは分かって店に来る。


この男は違った。


金額だけを決めて、失うものを今から選ぼうとしている。


店主は楽しそうに笑った。


「いくら必要なの?」


「五百万です」


「結構いるね」


男は三十代後半くらいだった。スーツは着ているが、袖口は少しくたびれていた。


四か月前に仕事を辞めたらしい。勤めていた会社の業績が悪くなり、退職を勧められた。次の仕事はすぐに見つかると思っていたが、思うようにはいかなかった。


貯金を崩し、それでも足りなくなって金を借りた。


妻には再就職までの一時的な借金だとしか話していない。


家のローンも残っている。娘は来年、中学生になる。


返済のために別のところから借りるようになり、このままでは家を手放すことになるという。


「奥さんは、そのことを?」


店主が聞いた。


「知りません」


「借金を?」


「はい」


「言えばいいのに」


男は少し顔をしかめた。


「言ったら、家を売ろうって言われます」


「それじゃ駄目なの?」


「駄目です」


即答だった。


娘が生まれる前に買った家だという。壁紙は妻が選び、庭には男が植えた木がある。リビングの柱には、娘の身長を測った線がいくつも残っている。


「ここだけは失いたくないんです」


店主は頷いた。


「それで、自分の何かを売って五百万作ろうと?」


「売るかどうかも含めて、相談したくて」


「なるほど」


店主は男を眺めた。


「じゃあ査定してみようか」


男の表情が少し明るくなった。


「例えば利き腕」


店主が男の右腕を見る。


「若いし、状態も悪くない。五百万なら十分届くよ」


男は反射的に右腕を押さえた。


「……動かなくなるんですよね」


「そうだね」


「それは嫌です」


「じゃあ片目」


「見えなくなる?」


「もちろん」


「それも嫌です」


「片脚なら?」


「嫌です」


男の答えは早かった。


キョウは帳簿を開いたまま、そのやり取りを見ていた。


五百万が必要だと言う割には、自分の身体を失うつもりはないらしい。


店主は面白そうに男を見ていた。


「なるほど。金は欲しい。でも身体は失いたくない」


「当たり前でしょう」


「当たり前かどうかは人によるよ」


「もっと、生活に影響がないものはないんですか」


「例えば?」


「それを聞きに来たんです。なくなっても困らなくて、五百万になるもの」


店主は少し考えるふりをした。


「味覚」


「五百万になります?」


「ならないね」


「嗅覚は?」


「もっと安い」


「昔の記憶とか」


「内容によるよ。君にとってどうでもいい記憶なら、こっちにとっても大して価値はない」


男は苛立ったように頭を掻いた。


「じゃあ何ならいいんですか」


店主が笑った。


「面白いことを言うね」


「何がですか」


「五百万の価値があるのに、君にとっては失っても惜しくないものを探してるんだろう?」


男は黙った。


「……そうです」


「そんな都合のいいもの、普通はないよ。価値があるから高いんだから」


男はそれでも立ち上がらなかった。


しばらくして、もう一度聞いた。


「本当に、何かないですか」


店主は男を見た。


顔から手元まで、値踏みするようにゆっくり視線を動かす。


「あるにはあるよ」


男が顔を上げた。


「何ですか」


「家族への愛情」


男の表情が止まった。


キョウも店主を見る。


「妻と娘がいるんだろう?」


「……います」


「大切?」


「当たり前でしょう」


「なら高いよ」


店主は帳簿に数字を書いて、男の前へ向けた。


五百万を大きく超えていた。


男は数字と店主を交互に見た。


「こんなに?」


「かなり大切にしてるみたいだからね。価値がある」


キョウは、その言い方が嫌だった。


時計や腕を査定しているときと、まるで変わらない。


男はしばらく数字を見ていた。


「愛情を売ったら、妻と娘のことを忘れるんですか」


「忘れないよ」


「妻と結婚したことも?」


「覚えてる」


「娘が生まれたことも、自分の娘だってことも?」


「全部残る」


「じゃあ、何がなくなるんですか」


店主は簡単に答えた。


「大切だと思う気持ちだけ」


男は黙った。


「妻が悲しんでいても、今までみたいに胸は痛まない。娘が笑っても、それを見て特別嬉しいとは思わない。それだけ」


「それだけって」


キョウが思わず言った。


店主がこちらを見る。


キョウは口を閉じた。


契約に口出しをしない。


それが約束だ。


男はもう一度、帳簿の数字を見た。


「でも、責任は残るんですよね」


「責任?」


「俺が父親だってことは分かる。妻と結婚してることも分かる。だったら愛情がなくても、家族としてやるべきことはできますよね」


店主は答えなかった。


男は自分に言い聞かせるように続けた。


「家を守るのだって、約束したことだからできます。別に、好きじゃなくなったからって、全部投げ出すわけじゃない」


「そうか」


男は何度か頷いた。


「買取で」


店主は帳簿を男の前へ出した。


「本当にいい?」


「はい」


「一度うちのものになったら、買い戻す値段は別だよ」


「分かってます」


男は指を押した。


店主が封筒を渡す。


「効くのは外に出てから」


男は封筒を鞄に入れ、戸を開けた。


外に出てすぐ、スマートフォンが鳴った。


妻からだった。


『今日、何時くらいに帰れる? 美咲が三人でご飯食べたいって』


俺は画面を見た。


娘の顔が浮かぶ。


最近は、俺が帰るのを待たずに寝ることが増えた。


昨日までなら、そのメッセージを見れば少しでも早く帰ろうと思った。


今日は何も思わなかった。


嫌いになったわけではない。


妻は妻、娘は娘だ。


ただ、それだけだった。


『八時くらい』


返信して、スマートフォンをしまった。


家に帰ると、娘が玄関まで来た。


「おかえり」


「ただいま」


娘が腕に抱きついた。


俺は一瞬、何をすればいいのか分からなかった。


それから、今までそうしていたから頭を撫でた。


「ご飯できてるよ」


妻が奥から顔を出した。


「うん」


三人で食卓につく。


娘が学校であったことを話して、妻が笑う。俺も必要なところでは笑った。


何も問題はない。


愛情がなくても、家族として振る舞うことはできる。


むしろ余計な感情がないぶん、冷静だった。


家を守る。借金を返す。再就職する。それでいい。


翌日、俺は銀行口座を確認した。


質屋でもらった金が入っている。


五百万を超える金。


これで家を守れる。


返済先の画面を開き、金額を入力したところで手が止まった。


俺はリビングを見回した。


柱には娘の身長を測った跡がある。


妻が選んだカーテン。


庭には、俺が植えた木。


昨日までは、それを見るたびにこの家を失いたくないと思った。


今日はただの家にしか見えない。


家を売ればローンは減る。


もっと安い部屋に住めばいい。


そもそも、どうして俺はここまでして、この家を残そうとしていたんだ。


答えは分かっている。


妻と娘が大切だったからだ。


でも、その気持ちはもうない。


俺は送金画面を閉じた。


それから一週間、金には手をつけなかった。


妻には、何とかなりそうだと言った。


嘘ではない。


金はある。


ただ、使う気になれない。


夜、一人で口座残高を眺めた。


この金があれば、別の街へ行ける。


小さな部屋なら何年か暮らせる。


再就職するまでの時間も作れる。


家を守るための金だった。


でも今、五百万を家のために使うことが急に馬鹿らしく思えた。


俺一人なら、この家はいらない。


妻のために残す理由もない。


娘のために借金を背負う理由もない。


「責任」


店ではそう言った。


愛情がなくても責任は果たせると。


でも、なぜ責任を果たさなければならないのだろう。


父親であることは変わらない。


でも、父親だから一生この家にいなければならないわけじゃない。


妻と結婚したことも覚えている。


でも、結婚したから離婚できないわけではない。


そんな当たり前のことを、今まで考えたこともなかった。


「話がある」


夕飯のあと、俺は言った。


妻がこちらを見る。


娘は自分の部屋にいた。


「家、手放そう」


妻は少し驚いたが、すぐに頷いた。


「……うん。その方がいいと思う」


「あと、離婚したい」


妻の顔が止まった。


「何?」


「一人になりたい」


「ちょっと待って。なんでそうなるの?」


「もう、ここにいる理由がないから」


「美咲は?」


「君が育てればいい」


妻はしばらく何も言わなかった。


「あなた、この前まで家を守るって」


「そうだったな」


「あの質屋に行ったのも、そのためでしょう?」


「そうだった」


「じゃあ、どうして?」


考えた。


自分でも説明するのは難しい。


「分からない」


俺は言った。


「今は、そこまでする理由がない」


妻の顔が歪んだ。


「何を売ったの?」


俺は答えなかった。


店のことは以前に話していた。


何を売ったのかまでは言っていなかった。


「何を売ったの」


もう一度聞かれた。


「君たちへの愛情」


妻は何も言わなかった。


ちょうどそのとき、廊下で音がした。


振り向くと、娘が立っていた。


聞いていたらしい。


「お父さん」


泣いていた。


俺は娘を見る。


泣いている。


悲しんでいることも分かる。


抱きしめた方がいいことも、謝った方がいいことも分かる。


でも、そうしたいとは思わなかった。


娘はしばらく俺を見てから、自分の部屋へ戻っていった。


妻が俺を見ている。


「本当に、何とも思わないの?」


俺は少し考えた。


「何も思わないわけじゃない」


人が泣いているのを見れば、良い気分はしない。


ただ。


「前とは違う」


妻は、その日から俺とほとんど話さなくなった。


《数日後》


店には客がいなかった。


キョウは帳簿を整理しながら、一つの項目で手を止めた。


家族への愛情。


買取済み。


「あの」


「何?」


「あの人、どうなったと思います?」


「どの人?」


「五百万欲しいって来た人です。家族への愛情を売った」


店主は棚を見る。


小さな箱が一つ置いてある。


「ああ」


「金、ちゃんと家のために使ったと思いますか」


店主は少し笑った。


「使ってないんじゃない?」


キョウは顔を上げた。


「どうして分かるんですか」


「だって」


店主は箱を手に取った。


「彼が家を守りたかったのは、家族を大切に思ってたからだろう?」


キョウは黙った。


「その家族への愛情を売ったんだ。家を残す気は無くなるよ」


「分かってたんですか」


「何が?」


「愛情を売ったら、その金を使う理由までなくなるって」


店主は何でもないことのように答えた。


「もちろん」


キョウは何も言えなかった。


「腕なら高いと言った。目でも足でも足りた。でも彼は嫌だと言った。だから、別の高いものを教えただけ」


店主は箱を棚に戻した。


「本人が失いたくないと思った腕や目より、家族への愛情の方が手放しやすかった。それだけだよ」


キョウは棚を見る。


男は五百万を手に入れた。


欲しかった金額より多い金を。


そのために、身体は何一つ失わなかった。


腕も動く。


目も見える。


足も歩ける。


ただ、その金が欲しかった理由だけを、この店に置いていった。


店主が帳簿を閉じた。


「人間って面白いよね」


キョウは答えなかった。


「欲しいものを手に入れるために、大事なものを売る。でも、大事なものを売ると、欲しかった理由までなくなることがある」


キョウは小さな箱を見た。


男が最初に聞いた言葉を思い出す。


何を預ければ、一番高くなりますか。


結局、一番高かったのは腕でも、目でもなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。