15話 子供
店の戸が開いたとき、キョウは最初、客だとは思わなかった。
カウンターの向こうに立っていたのは、ランドセルを背負った男の子だった。まだ小学校の低学年くらいだろうか。黄色い帽子を片手に持ち、店の中を不安そうに見回している。
キョウは帳簿から顔を上げ、それから隣の丸椅子に座っているレイを見た。
「……レイさん?」
「違うよ」
レイはすぐに答えた。
「まだ何も言ってませんけど」
「顔が言ってるじゃん。また私が連れてきたのかって。本当に違うからね」
レイは両手を上げた。今日は珍しく仕事ではなく、昼前から店に来て暇そうにしていた。
キョウはもう一度、男の子を見る。
「どうしたの?」
男の子はすぐには答えなかった。店主は奥で棚の整理をしているが、こちらを気にしている様子はない。
「ここ、何でも預かってくれるんですか」
「何でもというわけではないけど」
キョウが答えると、男の子は少し安心したようにランドセルの肩紐を握った。
「寂しいのって、預かってもらえますか」
キョウは答えられなかった。
レイが丸椅子の上で少しだけ姿勢を起こした。
奥から店主の声がした。
「預かれるよ」
キョウが振り向くと、店主は棚に箱を戻しているところだった。
「ちょっと」
「何?」
「子供ですよ」
「見れば分かるよ」
店主はいつもの調子でカウンターまで来ると、男の子の前に立った。
「寂しさを預けたいの?」
男の子は頷いた。
「どうして?」
「嫌だから」
「何が嫌なの?」
男の子は少し考えてから、ランドセルを背負い直した。
「家に帰っても、お母さんがいないから」
父親はいないらしい。
男の子は母親と二人で暮らしていた。母親は朝早く家を出て、帰ってくるのは夜の九時を過ぎることが多い。学校から帰ると、冷蔵庫に母親が作った夕飯が入っていて、それを自分で温めて食べる。
テレビをつけておく。
音がないと寂しいから。
宿題をして、風呂に入って、それでも母親が帰ってこない日は、一人で布団に入る。
「お母さん、仕事なの?」
キョウが聞く。
「うん。忙しいんだって」
「寂しいって言ったことは?」
男の子は首を振った。
「言ったら、お母さん困るから」
キョウは何も言えなくなった。
男の子は続けた。
「お母さん、帰ってくるといつもごめんねって言うから。でも、お母さん悪くないから。だから僕が寂しくなくなったら、お母さんも謝らなくていいでしょ?」
レイが男の子をじっと見ていた。
いつもの、人間の中から売れそうなものを探しているときの目とは少し違った。
「お金はいらない」
男の子が言った。
「だから寂しいのだけ取って」
キョウが口を開くより先に、店主が答えた。
「それはできない」
男の子の顔が曇った。
「預かれるって言ったよ」
「預かれるよ。でも、君一人とは契約できない」
店主はカウンターの下から帳簿を出した。
「子供が契約するなら、保護者の同意が必要なんだ。お母さんにここへ来てもらうか、少なくとも了承をもらってこないと」
キョウは少しだけ肩の力が抜けた。
この店にも、そういう決まりはあるらしい。
「じゃあ、お母さんに言わないとダメ?」
「そうだね」
男の子は俯いた。
「それじゃ意味ない」
「どうして?」
「寂しいって言ったら、お母さんまた謝るから」
店主は何も言わなかった。
男の子はしばらく床を見ていたが、やがて小さく「分かった」と言って戸の方へ歩き始めた。
「ねえ」
レイが呼び止めた。
男の子が振り返る。
「寂しいのって、そんなに嫌?」
「嫌です」
「どうして?」
「一人のとき泣くから」
レイは頬杖をついた。
「じゃあ、お母さんが帰ってきたときは?」
「え?」
「嬉しい?」
男の子は少し考えて、頷いた。
「嬉しい」
「どのくらい?」
「すごく」
「それ、寂しかったからじゃない?」
男の子は黙った。
レイは続けた。
「ずっと寂しくなかったら、お母さんが帰ってきても『あ、帰ってきた』って思うだけかもしれないよ」
「……それは嫌」
「じゃあ、持っとけば?」
あまりにも軽い言い方だった。
男の子も、キョウも、店主までレイを見た。
「何?」
レイは三人の視線に気づいて首を傾げた。
「いや……レイさん、そういうこと言うんですね」
キョウが言うと、レイは少し不満そうな顔をした。
「私を何だと思ってるの?」
「人が捨てたがってるものを探して歩いてる人です」
「間違ってないけど言い方が嫌だな」
男の子が少し笑った。
レイはその顔を見ると、今度は男の子に言った。
「それに、子供から取っても面白くないし」
「最後の一言いらないでしょう」
キョウが言うと、レイは笑った。
男の子はもう一度、戸の方へ向かった。
キョウはその背中を見ていて、少し迷ってから声をかけた。
「待って」
男の子が振り返る。
「寂しいって、お母さんに言ったことないんだよね」
「うん」
「一回、言ってみたら?」
男の子は嫌そうな顔をした。
「でも、お母さん困るよ」
「困るかどうかは、お母さんが決めることだから」
自分で言ってから、少し偉そうだったかもしれないと思った。
それでも続けた。
「君が勝手に決めなくてもいいと思う」
男の子はしばらくキョウを見ていた。
「怒らないかな」
「それは分からない」
「謝るかも」
「それも分からない」
「じゃあ、何で言った方がいいの?」
キョウは少し考えた。
「お母さんは、君が寂しいってことを知らないから」
それだけ言った。
男の子は納得したのかしていないのか分からない顔で頷いた。
「じゃあ、今日言ってみる」
戸を開けて、男の子は外へ出た。
閉まる直前、小さな声で「ありがとうございました」と聞こえた。
店の中が静かになった。
「客を一人逃がしたね」
店主が言った。
キョウは反射的に店主を見る。
店主は笑っていた。
「冗談だよ。契約できないんだから、まだ客じゃない」
「そういう冗談やめてください」
「キョウ、すごい困ってたね」
レイが楽しそうに言う。
「子供が来るなんて思わないでしょう」
「私はちょっと面白かったけど」
「さっき子供から取っても面白くないって言ってたじゃないですか」
「困ってるキョウが面白かったの」
キョウはため息をついた。
店主は帳簿を棚に戻した。
「まあ、大人になってもまだ寂しかったら、そのときは買うけどね」
キョウとレイが同時に店主を見る。
「何?」
店主は本当に不思議そうな顔をしていた。
その日の夕方まで、男の子は戻ってこなかった。
次の日も、その次の日も来なかった。
キョウは少しだけ安心した。
寂しさがなくなったから来ないのか、それとも母親に言えたから来ないのか。
ここから出られないキョウには、確かめる方法はなかった。
ただ、後者ならいいなと思った。




