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14話 才能

「才能って、預かれますか」


そう聞くと、カウンターの奥にいた男は少しだけ目を細めた。


「ものによるね」


「絵です。絵の才能」


男は今度こそ興味を持ったようだった。


「珍しいものを持ってきたね」


私は昔から、絵が上手かった。


最初に褒められたのは幼稚園だったと思う。先生が母に「この子はすごいですよ」と言って、母がその絵を額に入れて家に飾った。


小学校ではコンクールで賞を取った。中学では美術部に入った。高校も美術科のある学校へ行き、大学も美大だった。


気づいたときには、私の人生にはずっと絵があった。


いや、絵しかなかった。


「どうして手放したいの?」


店主が聞いた。


「疲れたんです」


「描くことに?」


私は少し考えた。


「たぶん、違います」


本当は絵を描くこと自体が嫌いなわけではなかった。


ただ、何をしても最後には絵の話になる。


大学を辞めたいと言えば、「才能があるのにもったいない」。


普通の会社に就職したいと言えば、「せっかくここまでやってきたのに」。


一度だけ、母に「もう絵は仕事にしたくない」と言ったことがある。


母は悲しそうな顔をした。


怒られた方がまだよかった。


「あんなに才能があるのに」


その言葉が、一番嫌いだった。


才能があるから続けろ。


才能があるから諦めるな。


才能があるから普通になるな。


それなら、才能なんてなければいいと思った。


「絵が描けなくなるんですか」


カウンターの端にいた若い店員が聞いた。


名札にはキョウと書いてある。


店主は私ではなくキョウの方を見た。


「描けるよ」


「才能を取るのに?」


「この人が今まで積み上げた技術まで取るわけじゃないからね」


店主は私の手を見た。


「十年以上描いてきたんだろう?」


「はい」


「なら、線の引き方も、遠近法も、色の作り方も、手は覚えてる。デッサンの知識も残るし、筆の使い方も忘れない」


「じゃあ、何がなくなるんですか」


私が聞くと、店主は少し楽しそうに笑った。


「説明するのは難しいね。人より早く分かる部分とか、教わっていないのにできる部分とか、見たものをどう切り取れば綺麗になるか自然に分かる感覚とか。そういうものかな」


「……それだけ?」


「その“それだけ”を才能って呼ぶんじゃない?」


私は少し黙った。


それならいい。


技術まで全部消えるわけではない。


今までの時間が全部なくなるわけでもない。


ただ、人より少し上手くできる部分がなくなるだけだ。


「買取でお願いします」


キョウがこちらを見た。


何か言うかと思ったが、言わなかった。


店主は帳簿を開いた。


「預かりじゃなくていいの?」


「いいです」


「戻したくなるかもしれないよ」


「なりません」


私はすぐに答えた。


その言葉を、今まで何度も誰かに言いたかった。


もう描きたくない。


もう期待されたくない。


もう、もったいないと言われたくない。


帳簿に指を押した。


店主が金額の入った封筒を渡してくる。


思ったより高かった。


「才能って、高いんですね」


「持ってない人の方が多いからね」


店を出てすぐ、私は近くの喫茶店に入った。


鞄にはいつも小さなスケッチブックが入っている。


確認したかった。


本当に、なくなったのか。


窓際に座り、向かいの建物を描いた。


鉛筆は普通に動く。


線も引ける。


窓の位置も、影の方向も分かる。


二十分ほどで、一枚描き終えた。


私はしばらくその絵を見た。


下手ではない。


むしろ普通の人よりは上手いと思う。


でも。


何か違う気がする。


目の前にあるものを、目の前にある通りに描いただけだ。


「普通だ」


思わず声に出た。


嬉しかった。


初めて、自分の絵が普通に見えた。


その日の夜、母に電話した。


「絵、やめるから」


少し長い沈黙があった。


「また何かあったの?」


「何もないよ。ただ、やめる」


「でも、あなたには才能が」


「もうない」


母が黙った。


私は少し笑った。


「本当に、もうないんだよ」


何を言っているのか分からなかったと思う。


でも、それでよかった。


その後、私は大学時代の知人に紹介してもらった会社で働き始めた。


美術とは関係のない仕事だった。


朝に電車へ乗って、パソコンを開き、メールを返して、昼には同僚とご飯を食べる。


最初は何もかも新鮮だった。


誰も私に絵を描いてとは言わない。


賞を取ったことも知らない。


高校時代の先生の名前も知らない。


私はただの新人だった。


それが、すごく楽だった。


母はまだ納得していなかった。


友達にも「本当にもったいない」と言われた。


でも、前ほど腹は立たなかった。


もう才能はない。


そう思うだけで、その言葉は私とは関係のないものになった。


数か月が過ぎた。


会社にも慣れた。


休みの日は映画を見たり、友達と出かけたりした。


スケッチブックは、鞄から出した。


もう必要ないと思った。


ある日の帰り道、夕焼けが綺麗だった。


高いビルとビルの間に、細く赤い空が見えた。


雨上がりで、道路には水たまりが残っていた。


赤い空がその中にも映っていた。


私は立ち止まった。


描きたいと思った。


久しぶりだった。


誰かに頼まれたわけでもない。


賞に出すわけでもない。


仕事でもない。


ただ、描きたいと思った。


そのまま文房具屋に寄って、小さなスケッチブックと鉛筆を買った。


近くのベンチに座り、描き始めた。


ビル、空、水たまり、通り過ぎる人。


昔なら、何も考えなくても構図が浮かんだ。


どこを切ればいいか。


どこを暗くすればいいか。


何を省けばいいか。


それが今は、一つずつ考えないと分からない。


描けないわけではない。


でも、違う。


一時間ほどかけて描き終えた。


私はその絵を見た。


悪くなかった。


ちゃんと夕焼けに見える。


ちゃんと水たまりも描けている。


でも、私が見た景色とは違った。


いや。


景色そのものは合っている。


違うのは、頭の中にあったものだった。


昔なら、目の前の景色を見た瞬間に、完成した絵が頭の中に浮かんだ。


今は、それがない。


私はしばらく絵を見ていた。


それから、初めて思った。


返してほしい。


数日後、また駅裏の路地へ行った。


戸を開けると、前と同じ店主と、キョウという店員がいた。


店主は私を見るなり笑った。


「早かったね」


何も言っていないのに、用件は分かっているようだった。


「買い戻せますか」


「何を?」


「才能を」


店主は帳簿を開いた。


「買取だったよね」


「分かってます」


「一度うちの物になったものを買い戻すなら、値段は別になる」


「いくらですか」


店主が紙に数字を書いた。


見た瞬間、何かの間違いだと思った。


「……これ、本気ですか」


「本気だよ」


「私が売ったとき、この金額じゃなかった」


「そうだね」


「何倍ですか、これ」


店主は笑った。


「君が売ったときは、君がその価値を知らなかったからね」


私は紙を見た。払えない。


今の仕事を何年続けても無理だ。


「才能って面白いよね」


店主が言った。


「持っている本人には、それが普通なんだ。だから一番価値が分からない」


「私、才能が嫌だったんじゃなかった」


自分でも驚くくらい小さな声が出た。


「そうみたいだね」


「才能があるからって、人生を決められるのが嫌だっただけで」


「うん」


「じゃあ、私が売るべきだったのは……」


そこまで言って、やめた。


私は店を出た。


《その後》


キョウは、女が出ていった戸を見ていた。


「戻ってきましたね」


「戻ってきたね」


店主は、先ほど書いた金額の紙を丸めて捨てた。


「本当に、あの値段なんですか」


「安いくらいだよ」


店主は棚から小さな箱を取った。


あの女の才能が入っている。


「才能って、そんなに価値があるんですか」


「欲しい人はいくらでもいるからね」


キョウは箱を見る。


「売れるんですか」


店主の手が止まった。


「何が?」


「その才能を。他の人に」


店主は少しだけ笑った。


「さあね」


「またそれですか」


「でも」


店主は箱を棚へ戻した。


「自分にないものを、金を払ってでも欲しい人間は多いよ」


キョウは棚を見る。


痛み。悲しみ。罪悪感。知識。


そして、才能。


今までは、ここにある物は全部、誰かが要らないと言ったものだった。


でも、それを欲しい人間がいるとしたら。


この店は、預かるだけの場所ではないのかもしれない。


キョウはそう思ったが、聞かなかった。


店主はもう、次の帳簿を開いていた。


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