13話 罪の背負い方
「人を殺しました」
店に入って最初にそう言うと、若い店員の手が止まった。
カウンターの奥にいた男だけは、特に驚いた様子もなく俺を見ていた。
「それで?」
「……それで?」
聞き返してしまった。人を殺したと言った人間に返す言葉とは思えなかった。
「人を殺した記憶を預けたいのか、殺したという事実を忘れたいのか、それとも別のものなのか。うちは質屋だからね。何を持ってきたのか分からないと査定できない」
店主らしい男は笑っていた。
俺は少し黙ってから言った。
「罪悪感を、なくしたいんです」
三年前、俺は人を轢いた。
夜だった。雨が降っていた。仕事の帰りで、妻からメッセージが来た。娘が熱を出したから、帰りに薬を買ってきてほしいという内容だった。
信号は青だった。
ほんの数秒、スマホを見た。
顔を上げたときには、横断歩道に人がいた。
ブレーキを踏んだことは覚えている。ぶつかった音も覚えている。車を降りたとき、道路に落ちていた傘の色まで覚えている。
五十二歳の男だった。
病院で死んだ。
裁判も終わった。免許もなくなった。賠償もした。亡くなった人の妻と息子には何度も頭を下げた。許してくださいとは、一度も言わなかった。
許されるとは思っていなかったからだ。
「忘れたいわけじゃありません」
俺が言うと、店主は帳簿を開く手を止めた。
「何を?」
「事故のことです。あの人のことも、自分がやったことも忘れちゃいけない。でも、もう……」
うまく言葉にならなかった。
「朝起きた瞬間から、寝るまでずっとなんです。飯を食べれば、あの人はもう食べられないって思う。娘と話して笑いそうになると、あの人の家族は笑えているのかって考える。妻が旅行に行こうって言っても、自分だけ楽しんでいいのかと思う」
事故から三年、家族旅行には一度も行っていない。娘の運動会にも去年は行かなかった。みんなが楽しそうにしている場所に、自分がいることが耐えられなかった。
娘は今年で十歳になる。
最近はもう、俺を遊びに誘わなくなった。
「妻に言われたんです。もう家族のところに帰ってきてって」
自分でも、おかしな言葉だと思う。
同じ家に住んでいる。
毎日顔も合わせている。
それでも妻から見れば、俺は三年前から帰ってきていないらしい。
店主は少し考えてから言った。
「罪悪感だけでいいんだね」
「はい」
「事故の記憶は残るよ」
「はい」
「亡くなった人の顔も、遺族に言われたことも、自分がスマホを見たことも残る」
「残してください」
「自分に非があったという認識も消えない」
俺は頷いた。
「それでいいんです。ただ、それを思い出すたびに、自分も死んだ方がよかったんじゃないかって考えるのをやめたい」
「預かりと買取があるよ」
店主が説明した。
三か月以内に金を返せば戻せる預かりと、完全に店のものになる買取。買取なら出す金額は高いらしい。
「買取で」
俺はすぐに言った。
「戻したくなるかもしれないよ」
「なりません」
店主はそれ以上何も言わなかった。
帳簿に指を押した。
「効くのは外に出てから」
店主から金を受け取り、俺は店を出た。
路地を十歩ほど歩いたところで、事故の日のことを思い出した。
雨。スマホ。横断歩道。倒れている男。
全部覚えている。
なのに、胸が痛くなかった。
俺はその場で立ち止まった。
もう一度、思い出してみた。
病院。警察。遺族。
葬儀には行かせてもらえなかった。
覚えている。
全部、俺がやったことだ。
でも、呼吸ができる。
三年ぶりに、肺の奥まで空気が入った気がした。
その日の夜、娘と一緒に飯を食った。
今までも同じ食卓にはいた。でも、俺はほとんど喋らなかった。
娘が学校であったことを話した。
前の席の子が授業中に寝て怒られたとか、体育で初めて逆上がりができたとか、そんな話だった。
笑ってしまった。
娘が俺を見て言った。
「お父さん、笑った」
その言葉で、妻もこちらを見た。
俺はもう一度笑った。
妻は何も言わなかった。ただ、少しだけ目を伏せた。
次の日曜日、三人で外食した。
その次の週には、娘が学校の話をするために俺の隣へ座るようになった。妻も以前よりよく話すようになり、俺は少しずつ三年前までの生活に戻っていった。
これでいいと思った。
事故を忘れたわけじゃない。
反省していないわけでもない。
俺は俺の人生を生きていい。
それだけのことだった。
一か月ほど経った頃、亡くなった男の命日が近づいた。
事故から三年。
去年も、一昨年も、その前も、命日には花を送っている。
妻が夕飯のあとに言った。
「今年も、お花送ろうか」
俺はテレビを見ながら答えた。
「もういいんじゃない?」
妻が黙った。
「何が?」
「花。もう三年だろ」
「去年も送ったじゃない」
「だからさ。いつまでやるんだよ」
妻の顔が少し変わった。
「ずっとじゃないの?」
「ずっと?」
思わず笑ってしまった。
「もう十分だろ。賠償もしたし、裁判も終わった。仕事も辞めた。いつまであの事故に人生潰されればいいんだよ」
妻は何も言わない。
俺は少し苛立った。
事故のあと、ずっと俺に「自分を責めすぎるな」と言っていたのは妻だ。
それなのに、ようやく俺が普通に生きようとしたら、今度はそれを責めるのか。
「それに、俺だけが全部悪かったわけでもないだろ」
妻が顔を上げた。
「何?」
「いや、俺がスマホ見たのは悪いよ。それは分かってる。でも雨も降ってたし、向こうだってもう少し周りを見てれば――」
「それ以上言わないで」
妻の声が低かった。
俺は口を閉じた。
「何だよ」
「今の、本気で言ってる?」
「事実だろ」
妻は俺を見ていた。
泣いているわけでも、怒っているわけでもなかった。
それが逆に気になった。
「質屋に行く前のあなたなら、絶対そんなこと言わなかった」
俺は返事をしなかった。
言わなかったんじゃない。
考える余裕がなかっただけだ。
三年前の俺は、自分を責めることしかできなかった。
今は冷静に事故を見られる。
それだけだ。
「俺は忘れてないよ」
妻に言った。
「何も忘れてない。俺がスマホを見たのも、あの人が死んだのも全部覚えてる」
妻は、何も答えなかった。
《数日後》
レイが店に来たのは、昼を少し過ぎた頃だった。
戸を開けるなり、いつものようにカウンターの内側へ回り込み、キョウの隣の丸椅子に座った。
「この前、罪悪感売った人いたでしょ」
キョウは帳簿から顔を上げた。
「人を轢いた人ですか」
「そう、その人。ちょっと見てきた」
「見てきた?」
「その後どうしてるかなって。気になったから」
レイにしては珍しいと思った。
「どうでした?」
「元気だったよ。すごく」
レイはそう言ってから、少し笑った。
「娘とも普通に話すようになったみたいだし、家族で出かけたりもしてる。前よりずっと幸せそう」
それだけ聞けば、良かった話だった。
キョウも少しだけ安心しかけた。
「ただね」
レイが続けた。
「もうすぐ事故から三年なんだけど、今年から亡くなった人に花を送るのやめるんだって」
キョウは黙った。
「それだけなら別にいいと思うけど、奥さんと揉めてたよ。もう十分償ったとか、いつまで事故に人生を潰されればいいんだとか」
「……」
「最後には、向こうももう少し周りを見てれば事故にならなかった、みたいなことまで言ってた」
キョウは帳簿を見る。
男の名前。
その横に、買取済みと書かれている。
店に来た日の男を思い出した。
許されるとは思っていないと言っていた。
事故を忘れたくないと言っていた。
自分が悪かったということも、残してほしいと言っていた。
「罪悪感がなくなると、人って変わるんですか」
キョウが聞くと、棚を整理していた店主が答えた。
「どうだろうね」
「分からないんですか」
「罪悪感を取っただけだからね。考え方までは取ってない」
キョウは少し黙った。
「でも、あの人は最初、自分が悪いって言ってました」
「今だって、悪かったとは思ってるんじゃない?」
「それと、相手にも原因があったって言うのは別でしょ」
店主は棚から小さな箱を一つ取った。
男から買い取った罪悪感だった。
「元々そういう考えがどこかにあったのかもしれない。それを罪悪感が押さえていたのかもしれない。あるいは、苦しくなくなったから自分に都合のいい理由を探し始めただけかもしれない」
レイが横から箱を覗き込んだ。
「でも幸せそうだったよ」
キョウはレイを見る。
「それでいいと思いますか」
「本人に聞けば?」
レイはあっさり言った。
「少なくとも、あの人は今の方が好きなんじゃない?」
キョウは何も言えなかった。
それは、たぶんそうなのだ。
あの男は楽になった。
妻と話せるようになり、娘と笑えるようになった。
それは間違いなく良いことだった。
それでも。
「罪悪感って、何のためにあるんですか」
キョウが聞いた。
店主は少し考えた。
珍しく、すぐには答えなかった。
「同じ過ちを繰り返さないためじゃない?」
「それだけですか」
「さあね」
店主は箱を棚に戻した。
「人間が何のために苦しむのかなんて、私にも分からないよ」
キョウは棚の箱を見た。
あの人から何も奪わないまま、楽にする方法はなかったのだろうか。
「キョウ」
店主に呼ばれて、顔を上げた。
「客だよ」
戸が開く音がした。
キョウは罪悪感の箱から目を離して、帳簿を開いた。




