12話 謎の一日
朝、キョウがいつものように帳簿を開くと、店主が戸の前に立っていた。
開店の時間はとっくに過ぎているのに、戸を開ける様子がない。それどころか、外側に向けて何かをぶら下げている。
「何してるんですか」
「休みにしてる」
振り返った店主は、何でもないことのように言った。
「今日?」
「今日」
「どうしてですか」
「休みたいから」
理由になっているようで、何も説明していない。キョウが戸を見ると、木の札がぶら下がっていた。店主の手書きで『本日休業』とだけ書いてある。
この店に来てから、初めて見た。
「質屋って休むんですね」
「失礼だね。私だって休むよ」
「見たことありませんけど」
「君が来てからはね」
店主はカウンターの椅子に座り、いつもの帳簿ではなく新聞を広げた。本当に働く気がないらしい。
キョウは自分の前にある帳簿を見る。
やることがない。
店主が店を開けないなら、当然客も入ってこない。棚の整理は昨日終えたし、帳簿にも書き足すものはなかった。
「僕は何をすれば」
「休めば?」
「……ここで?」
「君は外に出られないんだから、ここで休むしかないだろう」
分かっている。
分かっているから聞いたのだ。
キョウは椅子に座り直した。仕事をしているときはあまり考えないようにしているが、こうして何もすることがなくなると、この店の戸一枚がやけに厚く感じる。
新聞をめくる音だけが聞こえた。
十分ほど経ったところで、戸が外から叩かれた。
「休みって書いてあるんですけど」
キョウが言う。
「読めない客なのかな」
店主は新聞から顔を上げない。
もう一度叩かれた。
そのあと、戸が開いた。
「ただいまー」
レイだった。
両手に大きな紙袋を持っている。
キョウはしばらくレイを見てから、言った。
「当分帰ってこないって言ってませんでした?」
レイは戸を閉めながら、きょとんとした顔をした。
「言ったっけ?」
「言いました。次は遠出するから、当分来られないって」
「覚えてるんだ」
「普通、覚えてます」
レイは紙袋をカウンターに置いた。
「予定より早く終わったの。いいじゃん、帰ってきたんだから」
「当分って、何日くらいのつもりだったんですか」
「私の予定なんて変わるから」
答えになっていない。
店主が新聞の向こうで笑った。
「キョウは君がいなくて寂しかったんじゃない?」
「違います」
「即答だ」
レイは笑いながら丸椅子に座った。
キョウは紙袋を見る。店に持ち込まれる物にしては、ずいぶんいい匂いがする。
「それ、何ですか」
「ご飯。今日休みなんでしょ?」
「なんで知ってるんですか」
「聞いたから」
「誰に?」
レイは店主を指した。
店主は新聞を読んでいる。
「いつ連絡したんですか」
「昨日」
「昨日から休むって決めてたんですか」
「うん」
「何で僕には言わなかったんですか」
店主が新聞を少し下げた。
「言ったら何か予定あった?」
キョウは黙った。
ない。
予定など作れない。
店から出られない人間に、休日の予定なんてあるはずがない。
「ほら」
店主はまた新聞を上げた。
腹が立つが、反論できなかった。
レイが紙袋から容器を次々取り出した。寿司、唐揚げ、焼き鳥、サラダ、それから見たことのない店のケーキまである。
「買いすぎじゃないですか」
「三人いるし」
「店主は食べるんですか」
「食べるよ」
新聞の向こうから声がした。
キョウは少し驚いた。
考えてみれば、店主が食事をしているところをほとんど見たことがない。
「何、その顔」
「いや」
「私を何だと思ってるの」
「店主です」
「正解」
店主は新聞を畳んだ。
三人でカウンターを囲んで食べ始めた。
客のいない店は静かだった。
いつもなら戸が開く音を気にしながら食べるが、今日は外に休業の札がある。誰かが通る気配はしても、入ってくる人はいない。
レイは焼き鳥を食べながら、遠出した街の話をしていた。
大きな病院に行ったこと。失恋している女を見つけたこと。駅で、電車に乗れない男を見たこと。
「それが昨日言ってた人ですか」
キョウが聞く。
「そう。怖いのいらないって人」
「まだ来てません」
「そのうち来るよ」
レイは気にしていない。
「来なかったら?」
「それはそれでいい」
意外だった。
キョウは箸を止めた。
「いいんですか」
「何が?」
「仕事なんですよね。客を連れてくるのが」
「そうだけど、私が連れてくるわけじゃないし」
レイは焼き鳥の串を皿に置いた。
「私がやるのは、道を作るところまで。歩くかどうかは本人次第」
店主が少し笑った。
「もっと無責任なだけだよ」
「店主に言われたくない」
「私は契約には責任持ってるよ」
「契約には、ね」
二人は普通に話していた。
キョウはその会話を聞きながら、妙な感じがした。
店主とレイが一緒にいるところは何度か見たが、こうして客も仕事も関係なく話している姿は初めてだった。店主はいつもより少しだけ普通に見えるし、レイも客を探しているときのように誰かを観察していない。
「二人って、長いんですか」
キョウが聞くと、二人が同時にこちらを見た。
「何が?」
レイが聞いた。
「知り合ってから」
「長いよ」
レイが答えた。
「どのくらいですか」
「どのくらいだっけ」
レイは店主を見る。
「覚えてない」
店主が言った。
「嘘」
「君こそ覚えてるの?」
「覚えてない」
二人とも笑った。
キョウだけが笑えなかった。
この二人には、自分の知らない時間がある。それ自体は当たり前なのに、なぜか少しだけ気になった。
「レイさんも、ここで何か預けたことあるんですか」
聞いた瞬間、少し空気が変わった。
レイは驚いたようにキョウを見たあと、笑った。
「気になる?」
「少し」
「ないよ」
答えは早かった。
「じゃあ、どうしてこの店で働いてるんですか」
「働いてるっていうのかな。私」
「集客してるじゃないですか」
「趣味みたいなものだよ」
「趣味で知らない人を質屋に送ってるんですか」
「言い方悪いなあ」
レイは笑っている。
「でも、面白いよ。人って、自分の何を捨てたいと思ってるのか全然違うから」
「面白いですか」
「面白いよ」
レイは迷わなかった。
キョウには分からない。
痛みを捨てたい人。怒りを捨てたい人。悲しみを捨てたい人。努力して得た知識まで手放した人。
それを面白いと思ったことは一度もない。
「キョウは面白くないの?」
「思いません」
「じゃあ、何でまだいるの?」
レイが何気なく聞いた。
キョウは答えなかった。
答えは分かっている。
取り戻したいからだ。
目も、手足も、記憶も。
ただ、それを口にすると、この休みの日まで仕事の延長になってしまう気がした。
店主も何も言わなかった。
珍しいと思った。
いつもなら、こういうときに余計な一言を挟む。
レイも追及しなかった。
「ケーキ食べよ」
急に話を変えて、箱を開けた。
三種類入っている。
「好きなの選んでいいよ」
「いいんですか」
「休みなんだから」
その言葉に、キョウは少し笑った。
自分でも気づかない程度の、小さな笑いだった。
レイは気づいたようだったが、何も言わなかった。
キョウは一番手前にあったケーキを取った。
「それ私が食べたかったやつ」
「じゃあ先に取ればよかったじゃないですか」
「遠慮って知らないの?」
「好きなの選んでいいって言ったのはレイさんです」
店主が声を出して笑った。
キョウは店主がこんなふうに笑うところを、初めて見た気がした。
いつもの客を見て笑う顔とは違う。
何が違うのかは分からない。
ただ、その日は夕方まで誰も帳簿を開かなかった。
店主は途中で居眠りをして、レイは丸椅子に座ったままスマートフォンを触り、キョウは棚に置いてあった古い本を読んだ。
客は来ない。
契約もない。
誰も何も失わない。
こんな日が毎日ならいい。
そう思った自分に気づいて、キョウは本から顔を上げた。
店主はまだ眠っている。
レイはあくびをしている。
店の外を人が通り過ぎる。
誰も戸を開けない。
「明日は開けるからね」
目を閉じたまま、店主が言った。
キョウは返事をしなかった。
「今、残念だと思っただろう」
「思ってません」
「嘘」
レイが笑った。
キョウは本に目を戻した。
明日になれば、また誰かが来る。
何かをいらないと言って、帳簿に指を押す。
今日はその間の一日だ。
それでも。
一日くらいなら、こういう日があってもいいと思った。




