↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
11/53

11話 世界

困っている人間なんて、どこにでもいる。駅にも病院にも会社にもいて、少し歩けば一人くらいは見つかる。だから、困っている人を探すこと自体は仕事でもなんでもない。


私が探しているのは、自分の中にある何かを「いらない」と思っている人だ。


そういう人は、意外と少ない。


電車に二時間揺られて、知らない街に着いた。店主は簡単に「たまには遠くも見てきてよ」と言うけれど、自分はあの店からほとんど出ないくせにと思う。


まあ、私は外に出られるからいい。


誰かさんと違って。


そう考えるとキョウの顔が浮かんだ。まだいるだろうか、と一瞬思ったけれど、辞めたところで目も見えず、手足も動かず、記憶までないのだから、さすがに辞めるわけがない。


駅前を歩くと、少し先に大きな病院が見えた。


こういう場所は好きだ。


痛み、恐怖、後悔、悲しみ。売れるかもしれないものを抱えた人間が、自分から勝手に集まってきてくれる。


売店でコーヒーを買って待合室の端に座ると、向かいに五十代くらいの男がいた。隣には奥さんらしい女がいて、膝の上に置いた診察券を握りながら、何度も男の顔を見ている。


「先生も、まだ治療法はあるって言ってたじゃない」


「もういいよ」


「よくないでしょ」


「半年だぞ。薬飲んで、吐いて、また薬だ。もう疲れた」


私は紙コップに口をつけながら、男を見る。


いい顔をしている。全部投げ出したい人間の顔だ。


「病気になる前に戻りたい」


そこまで聞いたところで、興味がなくなった。


違う。


この人がいらないのは病気そのものだ。痛みでも、身体でも、記憶でもない。病気そのものは、うちでは預かれない。


病気を取れるなら質屋ではなく病院だ。


私は席を立って、そのまま小児病棟の方へ歩いた。途中の廊下で、一人の女がベンチに座って泣いていた。三十代くらいだろうか。隣にいる年配の女が、何も言わずに背中を撫でている。


「私が代わってあげられたらいいのに」


女が言った。


「何でもあげる。目でも、腕でも、何でもいいから」


私は足を止めた。


目。腕。


どちらも高い。若いし、状態も悪くなさそうだった。


少しだけ考えたけれど、そのまま歩き出した。


この人は、自分の目がいらないわけでも、腕が邪魔なわけでもない。子どもを助けられるなら差し出せると言っているだけだ。


結局、病院には客になりそうな人はいなかった。


病院を出る頃には昼を過ぎていて、お腹も空いていたので駅前の喫茶店に入った。仕事中でも甘いものくらい食べていい、どうせ経費なんて出ないけど。


ケーキが運ばれてくるまで暇だったので店内を眺めていると、窓際に一人で座っている女が目に入った。二十代後半くらいで、スマートフォンの画面には男と並んで写った写真が表示されている。


女は画面を消した。


少しして、また点けた。


同じ写真を見る。


そしてまた消す。


面白い。


こういう人は分かりやすい。


少しすると、友達らしい女が店に入ってきて向かいに座った。


「ごめん、待った?」


「ううん」


「また見てたの?」


「見てない」


「嘘」


私はケーキを食べながら、聞くつもりもないのに聞こえてくる二人の会話を聞いていた。


どうやら振られたらしい。


「もう忘れたい」


女が言った。


やっぱり。


「全部忘れたい。付き合ったこと自体、なかったことにしたい」


悪くない。


記憶でも悲しみでも未練でも売れる。


ただ、少し弱い。


失恋なんて放っておけば勝手に薄れるし、今は本気で全部捨てたいと思っていても、一週間後には別の男と食事をしているかもしれない。この街から店までは遠いし、わざわざ仕込むほどでもない。


私は残ったケーキを食べて、会計を済ませた。


本人には話しかけない。


それが私のやり方だ。


いきなり知らない人間から「痛みも記憶も預かる質屋がありますよ」なんて言われたら、普通は警戒する。でも、「知り合いが言ってた」「友達の友達が行ったらしい」「噂で聞いた」という形になると、人は急に信じ始める。


同じ話なのに、不思議なものだと思う。


夕方になって駅へ戻った。


今日はハズレかもしれない。二時間も電車に乗ってきて収穫なしと言ったら、店主に笑われそうだ。


まあ、別にいいけど。


ホームのベンチに座って帰りの電車を待っていると、階段の近くに立っているスーツ姿の男が目に入った。三十代くらいで、ホームまで来ているのに、電車が入ってくる音がすると階段の方へ下がっていく。


私は少し気になって、その男を見ることにした。


電車が止まり、扉が開く。


男は乗らない。


人が降りて、人が乗って、扉が閉まる。


次の電車が来ると、男はまた階段の方へ下がった。


三本目も同じだった。


額には汗が浮いていて、九月なのに何度もハンカチで手を拭いている。


いい。


電話が鳴ると、男は震える指でスマートフォンを取り出した。


「はい」


しばらく黙っている。


「すみません。今、向かってます」


嘘だ。


一歩も進んでいない。


「乗ろうとはしてるんです。でも、無理なんです」


私は少しだけ姿勢を起こした。


男は線路の方を見る。


「分かってます。仕事なのも、分かってます」


電話の向こうで何を言われているのかは分からない。


「怖いんです」


来た。


「電車が来ると、死ぬ気がして」


笑いそうになって、私は口元を手で隠した。


見つけた。


男は結局その電車にも乗らず、そのまま改札を出ていった。


私は少し距離を空けて後を追う。


ストーカーみたいだ。


まあ、仕事だけど。


男は駅前の喫煙所に入り、煙草に火をつけた。しばらくすると、別のスーツ姿の男がやって来て、その隣に立った。


「また乗れなかった?」


「……うん」


「会社、なんて?」


「明日は絶対来いって」


「病院行った方がいいんじゃないか」


「行ったよ。薬もらった。でも怖いものは怖い」


「事故に遭ったんだから仕方ないだろ」


事故。


なるほど。


「三か月だぞ」


男は煙を吐きながら言った。


「もう忘れたいよ。事故のことも、怖いって感じることも」


決まり。


私は少し離れたところにある自販機の前へ行き、ジュースを一本買った。それからわざと小銭を一枚落とすと、硬貨は地面を転がって、男の友達の足元で止まった。


「すみません」


「あ、はい」


男が拾ってくれる。


「ありがとうございます」


これで一度、顔を見てもらった。


私はそのまま歩き出して、十歩ほど進んだところでスマートフォンを耳に当てた。


誰にも繋げない。


「そういえばさ」


少し大きめの声で話す。


「〇〇駅の裏に変な質屋があるらしいよ」


後ろから視線を感じた。


聞いている。


「何でも預かるんだって。物じゃなくても」


少し間を空ける。


「怖いとか、痛いとか、そういうのも」


それだけ言って、角を曲がった。


店の場所までは言わない。詳しく話しすぎると作り話っぽくなるし、人間は分からない部分があると勝手に調べる。


誰かに話す。


その誰かがまた誰かに話す。


そうして本人の耳に戻る頃には、「知り合いが実際に行ったらしい」くらいの話になっていることもある。


そういう噂が、一番使いやすい。


次の日、店の戸を開ける。


「ただいまー」


「おかえり」


店主はいつもの場所にいて、キョウも帳簿を開いていた。


やっぱりまだいる。


まあ、当然か。


私は荷物をカウンターに置いて、キョウの隣にある丸椅子へ座った。


「疲れた」


「何人?」


店主が聞く。


「使えそうなのは一人かな」


「遠くまで行った割に少ないね」


むかつく。


自分で行けばいいのに。


「誰でも連れてくればいいってもんじゃないでしょ」


「君は選り好みするからね」


するよ。


その方が面白いから。


キョウがこちらを見ていた。


「どうやって選んでるんですか?」


「ん?」


「客を」


私は少し考えた。


困っている人。


違う。


苦しんでいる人。


それも少し違う。


「欲しがってる人かな」


「何をですか」


私はキョウを見る。


相変わらず真面目そうな顔をしている。


「なくした後の自分を」


キョウは分からないという顔をした。


店主は笑っていた。


「それで、今回は?」


「男。三十代。電車に乗れなくなったみたい」


「何を要らないって?」


「恐怖」


店主が帳簿を一冊取り出した。


キョウは少しだけ表情を変えた。


こういう話になると、まだ反応する。


店員には慣れてきたみたいだけど、やっぱり店主とは全然違う。


「来るかな」


店主が言った。


私は笑う。


「来るよ」


あの顔は来る。


自分の中にあるものを、本気で邪魔だと思っていた。


そういう人は噂を聞いたら探す。


店主は帳簿を開いた。


まだ何も書かれていない行がある。


そのうち埋まる。


たぶん、すぐに。


私は椅子の背にもたれて、店の外から聞こえてくる電車の音を聞いた。


あの男は今、この音を聞くだけでも怖いのかな。


だったら。


きっと来る。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。