11話 世界
困っている人間なんて、どこにでもいる。駅にも病院にも会社にもいて、少し歩けば一人くらいは見つかる。だから、困っている人を探すこと自体は仕事でもなんでもない。
私が探しているのは、自分の中にある何かを「いらない」と思っている人だ。
そういう人は、意外と少ない。
電車に二時間揺られて、知らない街に着いた。店主は簡単に「たまには遠くも見てきてよ」と言うけれど、自分はあの店からほとんど出ないくせにと思う。
まあ、私は外に出られるからいい。
誰かさんと違って。
そう考えるとキョウの顔が浮かんだ。まだいるだろうか、と一瞬思ったけれど、辞めたところで目も見えず、手足も動かず、記憶までないのだから、さすがに辞めるわけがない。
駅前を歩くと、少し先に大きな病院が見えた。
こういう場所は好きだ。
痛み、恐怖、後悔、悲しみ。売れるかもしれないものを抱えた人間が、自分から勝手に集まってきてくれる。
売店でコーヒーを買って待合室の端に座ると、向かいに五十代くらいの男がいた。隣には奥さんらしい女がいて、膝の上に置いた診察券を握りながら、何度も男の顔を見ている。
「先生も、まだ治療法はあるって言ってたじゃない」
「もういいよ」
「よくないでしょ」
「半年だぞ。薬飲んで、吐いて、また薬だ。もう疲れた」
私は紙コップに口をつけながら、男を見る。
いい顔をしている。全部投げ出したい人間の顔だ。
「病気になる前に戻りたい」
そこまで聞いたところで、興味がなくなった。
違う。
この人がいらないのは病気そのものだ。痛みでも、身体でも、記憶でもない。病気そのものは、うちでは預かれない。
病気を取れるなら質屋ではなく病院だ。
私は席を立って、そのまま小児病棟の方へ歩いた。途中の廊下で、一人の女がベンチに座って泣いていた。三十代くらいだろうか。隣にいる年配の女が、何も言わずに背中を撫でている。
「私が代わってあげられたらいいのに」
女が言った。
「何でもあげる。目でも、腕でも、何でもいいから」
私は足を止めた。
目。腕。
どちらも高い。若いし、状態も悪くなさそうだった。
少しだけ考えたけれど、そのまま歩き出した。
この人は、自分の目がいらないわけでも、腕が邪魔なわけでもない。子どもを助けられるなら差し出せると言っているだけだ。
結局、病院には客になりそうな人はいなかった。
病院を出る頃には昼を過ぎていて、お腹も空いていたので駅前の喫茶店に入った。仕事中でも甘いものくらい食べていい、どうせ経費なんて出ないけど。
ケーキが運ばれてくるまで暇だったので店内を眺めていると、窓際に一人で座っている女が目に入った。二十代後半くらいで、スマートフォンの画面には男と並んで写った写真が表示されている。
女は画面を消した。
少しして、また点けた。
同じ写真を見る。
そしてまた消す。
面白い。
こういう人は分かりやすい。
少しすると、友達らしい女が店に入ってきて向かいに座った。
「ごめん、待った?」
「ううん」
「また見てたの?」
「見てない」
「嘘」
私はケーキを食べながら、聞くつもりもないのに聞こえてくる二人の会話を聞いていた。
どうやら振られたらしい。
「もう忘れたい」
女が言った。
やっぱり。
「全部忘れたい。付き合ったこと自体、なかったことにしたい」
悪くない。
記憶でも悲しみでも未練でも売れる。
ただ、少し弱い。
失恋なんて放っておけば勝手に薄れるし、今は本気で全部捨てたいと思っていても、一週間後には別の男と食事をしているかもしれない。この街から店までは遠いし、わざわざ仕込むほどでもない。
私は残ったケーキを食べて、会計を済ませた。
本人には話しかけない。
それが私のやり方だ。
いきなり知らない人間から「痛みも記憶も預かる質屋がありますよ」なんて言われたら、普通は警戒する。でも、「知り合いが言ってた」「友達の友達が行ったらしい」「噂で聞いた」という形になると、人は急に信じ始める。
同じ話なのに、不思議なものだと思う。
夕方になって駅へ戻った。
今日はハズレかもしれない。二時間も電車に乗ってきて収穫なしと言ったら、店主に笑われそうだ。
まあ、別にいいけど。
ホームのベンチに座って帰りの電車を待っていると、階段の近くに立っているスーツ姿の男が目に入った。三十代くらいで、ホームまで来ているのに、電車が入ってくる音がすると階段の方へ下がっていく。
私は少し気になって、その男を見ることにした。
電車が止まり、扉が開く。
男は乗らない。
人が降りて、人が乗って、扉が閉まる。
次の電車が来ると、男はまた階段の方へ下がった。
三本目も同じだった。
額には汗が浮いていて、九月なのに何度もハンカチで手を拭いている。
いい。
電話が鳴ると、男は震える指でスマートフォンを取り出した。
「はい」
しばらく黙っている。
「すみません。今、向かってます」
嘘だ。
一歩も進んでいない。
「乗ろうとはしてるんです。でも、無理なんです」
私は少しだけ姿勢を起こした。
男は線路の方を見る。
「分かってます。仕事なのも、分かってます」
電話の向こうで何を言われているのかは分からない。
「怖いんです」
来た。
「電車が来ると、死ぬ気がして」
笑いそうになって、私は口元を手で隠した。
見つけた。
男は結局その電車にも乗らず、そのまま改札を出ていった。
私は少し距離を空けて後を追う。
ストーカーみたいだ。
まあ、仕事だけど。
男は駅前の喫煙所に入り、煙草に火をつけた。しばらくすると、別のスーツ姿の男がやって来て、その隣に立った。
「また乗れなかった?」
「……うん」
「会社、なんて?」
「明日は絶対来いって」
「病院行った方がいいんじゃないか」
「行ったよ。薬もらった。でも怖いものは怖い」
「事故に遭ったんだから仕方ないだろ」
事故。
なるほど。
「三か月だぞ」
男は煙を吐きながら言った。
「もう忘れたいよ。事故のことも、怖いって感じることも」
決まり。
私は少し離れたところにある自販機の前へ行き、ジュースを一本買った。それからわざと小銭を一枚落とすと、硬貨は地面を転がって、男の友達の足元で止まった。
「すみません」
「あ、はい」
男が拾ってくれる。
「ありがとうございます」
これで一度、顔を見てもらった。
私はそのまま歩き出して、十歩ほど進んだところでスマートフォンを耳に当てた。
誰にも繋げない。
「そういえばさ」
少し大きめの声で話す。
「〇〇駅の裏に変な質屋があるらしいよ」
後ろから視線を感じた。
聞いている。
「何でも預かるんだって。物じゃなくても」
少し間を空ける。
「怖いとか、痛いとか、そういうのも」
それだけ言って、角を曲がった。
店の場所までは言わない。詳しく話しすぎると作り話っぽくなるし、人間は分からない部分があると勝手に調べる。
誰かに話す。
その誰かがまた誰かに話す。
そうして本人の耳に戻る頃には、「知り合いが実際に行ったらしい」くらいの話になっていることもある。
そういう噂が、一番使いやすい。
次の日、店の戸を開ける。
「ただいまー」
「おかえり」
店主はいつもの場所にいて、キョウも帳簿を開いていた。
やっぱりまだいる。
まあ、当然か。
私は荷物をカウンターに置いて、キョウの隣にある丸椅子へ座った。
「疲れた」
「何人?」
店主が聞く。
「使えそうなのは一人かな」
「遠くまで行った割に少ないね」
むかつく。
自分で行けばいいのに。
「誰でも連れてくればいいってもんじゃないでしょ」
「君は選り好みするからね」
するよ。
その方が面白いから。
キョウがこちらを見ていた。
「どうやって選んでるんですか?」
「ん?」
「客を」
私は少し考えた。
困っている人。
違う。
苦しんでいる人。
それも少し違う。
「欲しがってる人かな」
「何をですか」
私はキョウを見る。
相変わらず真面目そうな顔をしている。
「なくした後の自分を」
キョウは分からないという顔をした。
店主は笑っていた。
「それで、今回は?」
「男。三十代。電車に乗れなくなったみたい」
「何を要らないって?」
「恐怖」
店主が帳簿を一冊取り出した。
キョウは少しだけ表情を変えた。
こういう話になると、まだ反応する。
店員には慣れてきたみたいだけど、やっぱり店主とは全然違う。
「来るかな」
店主が言った。
私は笑う。
「来るよ」
あの顔は来る。
自分の中にあるものを、本気で邪魔だと思っていた。
そういう人は噂を聞いたら探す。
店主は帳簿を開いた。
まだ何も書かれていない行がある。
そのうち埋まる。
たぶん、すぐに。
私は椅子の背にもたれて、店の外から聞こえてくる電車の音を聞いた。
あの男は今、この音を聞くだけでも怖いのかな。
だったら。
きっと来る。




