25 一時的な全盛
アルヴィスの体は温かかった。
今、私は目を閉じている。だからアルヴィスがどんな顔をしているか分からない。
想像はつく。
憎しみと恨み、恐怖と混乱、それが入り混じった表情に違いない。
「ほら、本能には抗えなかったでしょう? いくらノアさんが『人間ごっこ』をしたところで、貴女は擬態生物なのですから」
クーラの言葉に感情は乗っていない。
そもそも感情なんてないのだから、乗るわけがない。
アルヴィスの唇は柔らかかった。
体は筋肉質で硬いのに、不思議だ。
私は本能に抗い、アルヴィスを貪り食うことはしなかった。
何度も破ってしまった「人間を食べない」という誓いを今度は守ることができた。
その代わり、私はアルヴィスにキスをした。
いつか見た人間の男女のキス。
あの行為に何の意味があるのか、気になっていた。
アルヴィスは「好きな人とするもの」と言っていた。私はアルヴィスが好きだから、余計にしてみたかった。
することで何があるのか、と。
以前、彼にははぐらかされた。
そして、今、抵抗できないアルヴィスに私は無理やり口づけた。
私の一方的な想いでやってしまった。
擬態生物に深い恨みを持つアルヴィスからすると、おぞましく、吐き気を催す不快なものでしかないはずだ。
彼の心に、取返しのつかない傷をつけたことだろう。
そんなことは分かっている。
それでも、私はアルヴィスとキスがしたかったのだ。
私の最期のわがままだ。
申し訳ない気持ちと同時に、胸が温かくなり、心が満たされた。
もう思い残すことはない。
「く……やめろ! 離れろ、化け物!」
満身創痍のアルヴィスが渾身の力をこめ、私を突き放した。
「何をしやがる、気持ち悪い! 反吐が出る!」
アルヴィスに罵声を浴びせられる。
構わない。こうなることは覚悟していた。
「ごめんなさい、アルヴィス……でも、絶対に君を守るから。君は死なせない!」
私は立ち上がって、右腕の具合を確かめた。
さっき、アルヴィスにキスをした時、彼の血が私の口に流れ込んできた。
それは本当に濃厚で香り高い、極上の血液だった。
彼の血を飲みたくてキスをしたわけではない。
だが、結果として、私の体は元に戻った。
ひび割れは消え、失った右腕も再生した。
摂取量が少ないので、一時的なものに過ぎない。
少しすれば、また肌はひび割れていく。
でも、それだけあれば十分だ。アルヴィスを守るには事足りる。
クーラに視線を向けると、思考が停止したように固まっていた。
「な、何が起こって……? なぜ、その人間を食べなかったのですか?」
私がアルヴィスを食べなかったことに混乱しているのだ。
「いや、それよりも……その顔は何ですか? まるで、人間みたいな……僕を狩ろうとした狩人たちみたいな顔は」
私は今、どんな表情を浮かべているのだろう。
きっと、私を殺そうとしたガレスと同じような表情だ。
心底、擬態生物を憎んで、憎んで、憎み切った顔。
……今のアルヴィスが私に向けるものと、奇しくも同じだろう。
「私は君が嫌いだ、クーラ。アルヴィスを傷つけた君が、嫌いだ」
そして、私自身が何より大嫌いだ。
「だから、君を殺す」
クーラが後ずさった。
「なぜ、人間ごときの味方をするのです? 僕たちは擬態生物ではないですか」
その声は震えている。
この期に及んで、彼は『恐怖』という感情を学んだのかもしれない。
「君には分からないよ」
だが、誰かを『好き』になる気持ちまでは理解できないだろう。
私は一歩クーラに近づいた。
「あの……あの人間は、貴女を拒絶したのですよ!」
それがどうした。
「それでも私はアルヴィスを守ると決めたんだ」
アルヴィスはそんなこと望んでいないと思う。
だから、これも私の一方的な想いだ。
「なぜ……なぜ、擬態生物が人間を守るのですか!」
まったく理解できないという表情を浮かべ、クーラは私に向かってきた。
速い。
さすがは長く生き延びてきた擬態生物だけのことはある。
だが、私はクーラよりも長く生きている。
今のこの全盛期の力はほんの一時的なものなので、時間はかけられない。
ふと思い出したのは、憎きシュタインの言葉だ。
『人間を模倣したせいか、効果の高い部位も人間に似ているな』
ようは擬態生物の弱点の部位は人間と同じというわけだ。
クーラの魔手を避け、私は右手の指先を揃え、クーラの胸に突き刺した。
人間だったら、これで即死だ。
もっとも、人間には硬い骨があるので、擬態生物の軽い貫き手では貫くことはできない。
私が右手を引き抜くと、クーラはよろよろと後ろに数歩下がり、自身の胸に空いた穴を見つめた。
そして、私に視線を戻し、片手を伸ばす。
「なんで、僕はただ貴女と――」
そう言い残し、クーラは灰になって散った。
それと同時に、私の右腕も灰になった。
飲んだ血の量は少なかった。クーラの胸を貫くほどの威力を与えた右腕が無事であるはずがない。
栄養も使い切った。
むしろマイナスではないだろうか。
残った体のひび割れはさっきよりも悪化している。
顔にもひびが入っているのが分かる。
全身が痛い。
でも、それでいい。アルヴィスを守れたのだ。
「アルヴィス、無事――」
振り返って見たアルヴィスの表情は恐怖と混乱でひきつっていた。
……それも仕方ない。
アルヴィスが手も足も出なかったクーラに対し、私は一撃でクーラを灰にしたのだ。
そんな光景を見て、平然としている方がどうかしている。
「大丈夫……?」
それでも彼が心配で、歩み寄ろうとした。
「く、来るな!」
強い拒絶。
胸が締め付けられる。
だが、それが本来の擬態生物と人間の関係だ。
今までの関係は、嘘で塗り固められた、虚構の関係でしかない。
ただ、悪い夢を見ていただけだ。
辛く、苦しく、痛みを伴う――幸せな悪夢。
早くここから立ち去らないと、アルヴィスが安心できない。
分かっているのに足が動かない。
どんなに歪で、間違ったものだとしても、アルヴィスとの最期のひとときを惜しむかのようだった。
どれだけそうしていただろうか。
誰かが廃墟にやってくる音が聞こえた。
別の狩人が来たのかもしれない。
その狩人はこの状況を見て、どう思うだろう。
私がアルヴィスを襲っているようにしか見えないだろう。
そして、私は殺される。
死ぬのは怖い。
残った左手で、首元の青いスカーフを握り締めた。
でも、私は死を受け入れよう。
どんな形であれ、アルヴィスのことを覚えておこうと、彼を見つめながら、私を殺す狩人が現れるのを待った。
「……なに、この状況?」
やがて、やってきたのはヴェラだった。
彼女の声を聞き間違えるはずがない。
私の友達――いや、ヴェラには否定されたんだった。
「ノア、あんたどこかに行ったんじゃなかったの?」
「……行こうと思った。でもやらないといけないことがあったんだ」
ヴェラは半ば放心しているアルヴィスに駆け寄り、彼を支える。
ああ、やっぱりこの二人はお似合いだ。
「やること? 廃墟でアルヴィスを酷い目に遭わせたかったの? もう会わないとか言っておきながら」
「……私はアルヴィスを守りたかったんだ。でも、私のことなんて信じられないよね」
ヴェラは今度は私の方に来た。
「ノア」
どんな罵りを受けるのだろうか。
そう思うと、彼女の顔を直視できない。
「ノア、こっちを見なさい」
ヴェラに両肩を掴まれ、おずおずと彼女と目を合わせる。
「信じるわ。ここで何があったか分からないけど、右腕を失って、顔までひび割れが生じるほどの何かから、アルヴィスを守ったんでしょ?」
「……私は擬態生物だよ」
「だから、何? あんたが悪い奴なら、あたしが来る前にアルヴィスを食べてるでしょ。でも、そうしなかった」
ああ、ヴェラはなんて優しいのだろう。
こんな私を信じてくれる。
「何があったか教えてくれる?」
「あ、うん――」
私がシュタインがクーラに殺されたことから、アルヴィスに正体がバレたところまで話した、その時だった。
「……ヴェラ?」
アルヴィスが声を発した。
「……ノア、行きなさい。アルヴィスが混乱から醒めたら、あんた、殺されるわ」
放心していたアルヴィスの瞳が、はっきりと私に像を結ぶのが分かった。




