26 灰とスープ
混乱から辛うじて正気を取り戻したアルヴィスは、明確な敵意をもって私を睨んだ。
彼は立ち上がろうとしてよろめいた。
支えに行きたかった。だが今の私に、彼に触れる資格などない。
そんなことをすれば、アルヴィスが余計に傷ついてしまう。
代わりにヴェラがアルヴィスの肩を支えた。
「お前は何がしたかったんだ、ノア。クーラとかいう擬態生物はお前の仲間だったんじゃないのか!?」
アルヴィスが自身の剣の柄を強く握る。
「……あいつは仲間なんかじゃないよ」
「なんで俺を助けた?」
好きだから。
アルヴィスに傷ついてほしくなかったから。
そう答えるのは簡単だ。
だが、それを聞かされたアルヴィスはどう思う。
殺したいほど憎んでいる擬態生物に「好き」なんて言われて、いい気分がするわけがない。
「まさか、クーラに獲物の俺を横取りされると、思ったのか?」
「アルヴィス、やめなさいよ。ノアはそんな子じゃないわ」
アルヴィスの誤解を、ヴェラが解こうとしてくれる。
「ヴェラ、こいつは擬態生物なんだぞ! 今、こうしている間にも俺たちを食おうと思っているに決まってる」
「……アルヴィス、ノアの話を聞きなさい」
このまま、アルヴィスに殺されるのが、彼にとっては一番いいことかもしれない。
だったら、彼が私を殺しやすいよう、擬態生物らしく振舞おう。
「……あーあ、バレちゃったか。アルヴィスなんて、いつでも食べられる餌だったんだよ」
「やっぱりそうか」
「……ノア?」
顔を歪めるアルヴィスと、顔に困惑を浮かべるヴェラ。
「もっと、信じさせてから……うぅぅ……食べる、つもりだったんだ」
あれ……?
なんで、涙が出てくるのだろう。
これまでさんざん嘘をついてきた。そこに最期の嘘を重ねるだけなのに……
なんで、こんなにも苦しくなるのだろう。
「どうせなら……ひぐ……もっと、早く、食べておけば……ううぅぅ」
我慢しようとするのに、嗚咽が漏れてしまう。
こんなにも嘘が下手だっただろうか。
たとえ嘘でも、アルヴィスを食べたいなどと言いたくなかった。
涙がぽろぽろと溢れてくる。
止まれ……止まってくれ。
「なんで、そんな嘘をつくのよ!」
ヴェラが声を張り上げた。
怒っているような、それでいて泣きそうな声音だ。少し震えている。
「ノアはそれでいいの!? アルヴィスに嘘をつくのはやめるんじゃなかったの!?」
確かにそんなことも言っていた。
だが、これは必要な嘘だ。
「嘘じゃない! ひぐ……擬態生物は、人間を食べる生き物なんだ! えぐ……」
「体がぼろぼろになっても! 人間を食べるのを我慢してたのは、どこの誰よ!」
私は言葉に詰まった。
「ぐす……私は擬態生物で……アルヴィスは人間なんだ……うぅ、叶いっこない……」
胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。
そこには何もない空洞だというのに。
「誰のために我慢してたのよ! 最期に嘘をつくなんて、あたしは許さない! ちゃんと本心をアルヴィスに伝えなさい!」
ああ、なんてヴェラは残酷なんだ。
なんて残酷で――優しいんだ。
「何の話をしているんだ?」
怒鳴り合う私とヴェラを見て、アルヴィスが困惑している。
ヴェラはアルヴィスに告げた。
「いい、アルヴィス? ノアはね、あんたのために……あんたが傷つかないように、人間の捕食をやめていたのよ。あんたにも心当たりがあるはずよ」
「……まさか、皮膚病か。いや、だがこいつはガレス師匠を食ったんだ。他ならぬ、こいつの口から聞いたぞ」
体力が回復してきつつあるのか、しっかりとした足取りで立ち、アルヴィスは私に剣の切っ先を向けた。
「望んで食べたわけじゃない! ノアはすごく辛そうで、苦しんで、それでもあんたと一緒にいたかったのよ、アルヴィス。なんでか、分からないの?」
「擬態生物の気持ちなんて分かるわけないだろ! そもそも『気持ち』なんてないだろうが!」
ヴェラがアルヴィスの胸倉を掴んだ。
アルヴィスが少しだけふらついた。
「いいかげん、気づきなさい! ノアはあんたのことが――」
「やめて、ヴェラ……」
そこで私が遮った。涙を拭う。
「お願いだ……やめて、ヴェラ。もう、いいんだ。どんな事情があっても、ガレスを食べたことに変わりないんだ……」
「そのことはあたしも許せない。でも今は、あんたの気持ちの話をしてるのよ!」
私の気持ちなんて、どうでもいい。
だから、私は首を横に振った。
「違うよ。大事なのはアルヴィスの気持ちなんだ……ぐす……ガレスを食べてしまった私を……アルヴィスは殺す権利がある」
アルヴィスの向ける剣の切っ先へ、私は一歩進み出た。
彼の剣が微かに震えた。
「なんで……なんでそうなるのよ! あんた、アルヴィスが好きなんでしょ! 味が分からないくせに、アルヴィスのためにスープを作ってたじゃない! アルヴィスのことを話すあんたは……ただの恋する女の子だったじゃない……!」
「ヴェラ、お前、頭がおかしくなったのか? 擬態生物が『好き』とか『恋』とか分かるわけないだろ!」
そう。
アルヴィスの言う通りだ。
「黙りなさい、アルヴィス」
しかし、どこまでも正しいアルヴィスに、ヴェラはぴしゃりとそう言って、私に再び視線を向けた。
「ノア……楽な方に逃げちゃダメ」
「そんなつもりは……」
「ううん。あんたは逃げてるわ。『アルヴィスが傷つくのを見たくない』って言い訳して、あんた自身の気持ちから逃げてる」
私の気持ち。
私の感情。
私の心。
アルヴィスが優しくしてくれると嬉しくなる。
アルヴィスが微笑んでくれると、胸が温かくなる。
アルヴィスと一緒に過ごした日々は、かけがえのない思い出だ。
「逃げるな、ノア! アルヴィスに本当のことを伝えるって言ってたでしょ? だったら、逃げずにあんたの本心を伝えなさい!」
ハッとした。
もう、アルヴィスに嘘をつかないって決めたのだった。
「そう、だね……アルヴィス、ずっと騙しててごめん。嘘をつき続けて、本当にごめん……」
そこで言葉が詰まる。
本当に言っていいのか。
だが、私の気持ちを伝えるには今しかない。
私はこの後、誰も食べずに朽ちるつもりなのだ。
だから、アルヴィスはひどく怒って、困惑したとしても……これを傷つけることになったとしても――
ちゃんと本心をつたえよう。
「私はアルヴィスが好きなんだ」
「……は? 嘘、だろ……?」
アルヴィスの声が震えている。
理解が追いついていないのだろう。
「この感情だってただの模倣で、擬態で、嘘偽りで、きっと中身なんてないのかもしれない」
「だったら――」
「でも、君のことを考えると、心が苦しいんだ。胸が締め付けられて、辛いんだ」
私は胸を押さえてうずくまってしまった。
大粒の涙が足元を濡らしていく。
「こんなことになるなら、感情なんて知りたくなかった。アルヴィスのことを好きにならなければ良かった! ううぅぅ、うあぁぁぁぁ……」
アルヴィスの顔を直視することができない。
ただ、剣先が細かく震えているのは分かった。
彼も葛藤しているのかもしれない。
どれだけの時間が経っただろうか。
長いようであり、短いようでもあった。
アルヴィスが答えを出すまでの間、ヴェラは泣きじゃくる私に寄り添ってくれた。
やがて、アルヴィスが口を開いた。
「ノア……」
アルヴィスの顔を見上げると、苦々しい表情を浮かべていた。
そして、絞り出すように私に告げた。
「……失せろ。二度と俺の前に、現れるな……!」
そう言われるだろうと思っていた。
だけど、いざ言葉にされると、心にぽっかりと穴が空いてしまったかのように感じた。
胸の内側が空洞である私にはお似合いだ。
「アルヴィス! それでいいの!?」
ヴェラがアルヴィスに詰め寄ろうとしたので、私はそれを止めた。
振り返ったヴェラは今にも泣きだしそうだった。
「ノア……」
「ヴェラ、ありがとう」
そして、アルヴィスをまっすぐに見つめ、最後に一言だけ言った。
「大好きだよ、アルヴィス」
うまく笑えただろうか。
涙で視界が滲み、アルヴィスがどんな反応をしたのか分からない。
ただ、これ以上ここにいられなくて、私は逃げるように廃墟を去った。
◆
これでいい。
擬態生物と人間が分かり合うなど、とうてい無理な話だ。
それでも、最期にアルヴィスの顔が見たかった。
だから、ひび割れが進行し、少しずつ体が灰になっていく中、私は鐘楼に上った。
痛む体をひきずるように階段を上り、アルヴィスの家を探す。
確か、こっちの方角のはず……あった。
しばらく待っていると、アルヴィスが帰宅してきた。
彼は鍋にスープが入っていることに気づいた。
ヴェラに味見をしてもらって、私が最後に作ったスープだ。
温め直したスープを皿に移し、アルヴィスは私のスープをスプーンで口に運んだ。
『美味しい』
彼の口がそう動いた気がした。
嬉しい。
本当に嬉しい。
私の体が崩壊し始める。
手足の先から少しずつ灰になっていく。
それでも、アルヴィスがスープを完食するのを見届けることができた。
私もあのスープを味わうことができればどれだけ良かったか。
だが、高望みはしない。もう、十分だ。
満足したのに呼応するように、私の体は一気に灰になった。
最期に見えたのは、風に舞う青いスカーフだった。
これにて本作品は完結です。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
皆様のおかげで、無事に最後まで書き切ることができました。
現在は次の作品を鋭意執筆中です。
またどこかでお会いできたら嬉しいです。




