22 理解者
いつまで待っても、体のどこにも痛みや衝撃がない。
「なんで……」
ヴェラの声がすぐ近くで聞こえた。
目を開けると、彼女の顔は苦渋に歪んでいた。
彼女の双剣が私の首に当たるか当たらないかというところで止まっていた。
「なんで、避けないのよ!」
ヴェラは叫んだ。双剣を持つ手が震えている。
「何を考えてるのよ!」
カランと二振りの剣が乾いた音を立てて、地面に落ちた。
空いた手で、ヴェラは私の胸倉を掴んだ。
「なんで抵抗しないの!」
「……だって、君が傷ついたら、アルヴィスが悲しむじゃないか」
「またそれ……あんたにとって人間はただの餌でしかないはずでしょ!」
否定はできない。
今だって、飢餓に襲われる私には、ヴェラが肉に見えてしまう。
「それなのに、アルヴィス、アルヴィスって! 何なのよ、あんたは! あんたにとって、アルヴィスはただの餌なんでしょ!」
なんでヴェラが泣きそうなのだろう。
私がいなくなれば、邪魔者はいなくなるはずなのに。
おぞましい化け物の相手をしなくてよくなるのに。
「……最初は、そのつもりだったんだ」
「最初は?」
「うん。初めて会った狩人だったから、狩人のことを知りたくて、彼の勘違いを利用して、彼と過ごすようになったんだ」
私が人間であるという勘違いは今も続いている。
「でも、アルヴィスの優しさに触れて、私は変わってしまった……」
私の胸倉を掴んでいたヴェラの手が離れ、彼女は後ずさった。
「なに……何よ、それ……」
「アルヴィスが笑ったら私も嬉しいし、アルヴィスが傷つくのは私も辛い。そう思うようになったんだ」
嘘偽りのない本心だ。
「そんな……それじゃ、まるで人間みたいじゃない……」
私は首を横に振った。
「私は中身が空っぽで、醜い化け物だよ。でも……それでも、アルヴィスのことが好きになってしまったんだ……」
「擬態生物が人間を……?」
「だから、人間を食べるのはやめた……つもりだったんだ」
それなのに、ガレスを食べてしまった。
本能の赴くままに彼を貪った。
「ううぅぅぅ……」
思わず、嗚咽を漏らしてしまった。
「……それで、あの夜、あんなに苦しそうな顔をしてたの?」
「アルヴィスが悲しむのが嫌で、お腹が空くのを必死に我慢してたんだ……なのに、私はガレスを……」
私は両膝を地面につき、両手で顔を覆った。
指の間から涙がこぼれてくる。
「本当に、食べたくなかったんだ! 私はどうしたら、良かったの? ガレスに殺されていれば……良かったのかな?」
化け物の告白など聞かされても、ヴェラは困るだけだろう。
だけど、止められなかった。
誰にも言えなかった苦しみを吐露してしまう。
「でもアルヴィスもヴェラも私に優しくしてくれた。とても嬉しくて……とても辛かった。二人の優しさに触れるたびに、胸の奥が苦しくなるんだ。中身なんてないくせに……」
「ノア……」
「もう、嫌なんだ。アルヴィスにも君にも嘘をつきたくない……苦しいのは、嫌なんだ!」
だからアルヴィスに全てを打ち明けようと思ったのだ。
結果として、ヴェラとこうして話すことになったが。
「……ヴェラ、私を殺してくれないか?」
「何を、言ってるの……?」
「君は私のことが嫌いだろう? こんな醜い化け物だ。さっきまでの続きをするだけでいいんだ」
顔を上げてヴェラを見ると、彼女は目を見開いていた。
「お願いだ、ヴェラ……」
「そんな話を聞かされて、殺せるわけないじゃない!」
彼女は首をふるふると振った。
「でも――」
「でも、じゃない! ガレス師匠のことは不可抗力だったんでしょ? だからといって、あんたを許せるわけじゃないわ。それでもあんたが苦しみに耐えていたのは、見てたから分かるわ。なんで苦しんでいるのか知らなかったけどね」
彼女は地面に落としていた双剣を拾い、腰の鞘に収めた。
本当に私を殺す気はないらしい。
「見逃してあげるわ。その代わり、街を出ていきなさい。あんたがいたら、アルヴィスは不幸になる」
ヴェラの言葉は厳しい。
だが、そこに冷たい印象はなかった。
そうするのが、きっとアルヴィスのためであり、私のためなのだ。
「うん、そうだね……そうするべきだ。でも、最後にアルヴィスにお別れを言いたい」
「……いきなりいなくなったら、あいつも心配するか。いいわ。でも、あんたが変なことをしないか、あたしもついていく」
彼を傷つけることをする気はない。
いや、真実を全て話すつもりだから、きっと彼は傷つく。それでも、長い目で見れば、その方が小さい傷で済むはずだ。
「ヴェラがいてくれると、心強いよ」
私は涙を拭って、ヴェラに微笑んだ。
「何なの、本当……調子が狂うわね」
そう言ってヴェラも苦笑した。
◆
アルヴィスの家に戻ってきた時には、既に夕刻になっていた。
彼に私の正体を明かす。
そのつもりで意を決していたのだが、不幸にもアルヴィスは家にいなかった。
仕事に行ってしまったようだ。
「……どうするの?」
「いつまでもここにいると、未練が残ってしまう……街を出るよ」
「いいの?」
私は首を縦に振った。
「書き置きをするよ。アルヴィスは自分の手で私を殺したいだろうから、そこだけは申し訳ないけどね。でも、もう人間を食べないって決めたから、遠からず私は消えてなくなる。それで勘弁してほしいな」
「あんたはそれでいいの? 本当に?」
「……うん。あ、でも、最後にスープを作りたいな」
ヴェラが首を傾げる。
「アルヴィスに私のスープを『美味しい』って言わせるのが、目標だったんだ」
「あんた、味が分からないでしょ」
「うん。でもこの前、君が作るのを見たから、たぶん大丈夫」
ヴェラが今度は溜め息を漏らした。
「あんた、見てただけじゃない」
「人間の真似をするのは得意だから」
そう答えると、彼女はなんとも微妙な表情を浮かべた。
「ヴェラのスープをアルヴィスが美味しそうに飲んでて、実はものすごく悔しかったんだ」
「悔しいって……あんた、本当は擬態生物のふりをしている人間なんじゃないの?」
「もし、そうだったら……ヴェラともちゃんと友達になれたのかな」
そうだったらどんなによかったか。
「無理ね。ノアは恋敵だから」
話しながら、私は野菜や干し肉を切る。
ヴェラが作っていた時のことを思い出しながら、細かく切りすぎないようにする。
お湯もぐつぐつと沸騰させるのではない。
塩の量や、名前は分からないが、色がついた粉を入れる。
そうして出来上がったスープを、ヴェラに味見してもらう。
「んー、ちょっと違うわね」
そう言って、手を出そうとした。
「やめて。私だけの力で作りたいの。でも味見はできないから、お願いしたいんだ」
「仕方ないわね」
ちょっとだけヴェラからアドバイスをもらいながら、味を調える。
やがて、完成した。
「うん。これならあいつも『美味しい』って言うでしょ」
「良かった……ヴェラ、ありがとう。もう心残りはないよ」
「なんでそんなにスープを作りたかったの?」
私は少し考えてから、答えた。
「初めてアルヴィスに会った日に、彼が私にくれたんだ。体は受け付けなくて、こっそり吐いちゃったけど。でもそれがアルヴィスにもらった最初の優しさだったから」
「……それも演技だったんでしょ?」
「最初はそう。でも、いつの間にか、本物の気持ちになってた」
そうヴェラに伝えると、彼女は悲しそうな、今にも泣きそうな顔になった。
そして、顔を逸らして、彼女は私に告げた。
「さっさと行きなさい。アルヴィスには私がうまく伝えておくから」
「うん。ありがとう、ヴェラ……さようなら」
私はそれだけ言って、アルヴィスの家を出た。
書き置きもしたし、スープも完成させることができた。
もう、ここに戻ってくることはない。
そして、アルヴィスに会うつもりもない。
行く当てなどないが、どこに行っても、人間を食べるのをやめた以上、どこでも変わりはない。
そこまで考えて、ふと思った。
いつからか、私よりも長く生きた擬態生物を見なくなっていた。
なぜかと不思議に思ってはいたのだが、きっと私と同じように人間の感情まで模倣してしまったのではないだろうか。
その結果、人間を食べられなくなり、餓死していった。
想像でしかないが、もしそうだとするなら擬態生物とはなんと虚しい生き物なのだろう。
まあ、どうでもいいことだ。
私はこのまま朽ちて灰になるだけなのだから。
だが、その前にやるべきことがある。
私はシュタインのいる診療所へと足を向けた。




