21 ヴェラとの対峙
何度も何度も口に指をねじ込まれた。
その度に私の体は喜びに満ち、心は昏く沈んでいった。
私を解放する前に、シュタインはこう言った。
「また、肉を準備しておくよ」
次もまた無理やり人肉を食わされる……
苦しくて、苦しくてどうにかなりそうだ。
診療所に来たとき以上に重い足取りで帰途についた。
早くアルヴィスに会いたい。
……でも、会いたくない。
「人を食べない」というたったそれだけの誓いを、いとも簡単に破ってしまう私自身が恨めしい。
私は……どうしたら良かったのだろう。
このまま、あの家に帰っていいのだろうか。
こんな醜く、おぞましい化け物があそこにいていいのだろうか。
いいわけがない。
アルヴィスにとって、私は有害でしかない。
私の一方的な想いで、彼に迷惑をかけるわけにはいかない。
そう考えると、足が止まってしまった。
アルヴィスの家のすぐ近くまで戻ってきたのに、進めない。
それでも行くべきだ。
しばらく集合住宅の三階、アルヴィスの部屋を眺めてから、決心する。
アルヴィスに真実を話そう。
その結果、彼に憎まれ、恨まれ、罵られ、底冷えするような視線を向けられようとも。
刃を突きつけられても構わない。
もう嘘はつきたくない。
彼を裏切りたくない。
スープについては……もう諦めるしかない。
心残りがあるとすれば、それだけだ。
「……『美味しい』って言ってほしかったな」
叶わぬ願いなど抱くべきではなかった。
味が分からない化け物の分際で、淡い希望を抱くのが間違いだった。
「よし、行こう」
無理やり足を動かし、アルヴィスの家に向かおうとした時、背後から声がかかった。
「ちょっといいかしら?」
聞き覚えのある声。
剣呑で、冷たさを含んでいる。
「ヴェラ……何かな?」
振り返りながら、私は尋ねた。
ついに私を断罪しに来たのだろう。
どうせ死ぬなら、アルヴィスの手で灰にしてほしかった。
でも……ヴェラの手にかかるなら、それでもいいかと思い直した。
「話があるわ。ここじゃ人目につくから、ついてきて」
鋭い視線が私を射抜く。
「そんな目で見なくても、逃げたりしないよ」
私は苦笑してみせた。
ヴェラは踵を返し、先行する。私は大人しく彼女を追った。
◆
人が行き交う大通りを抜け、街を出る。
さらに進むと、少し小高い丘についた。私たち以外には誰もいない。
風が通り抜けていく。
「この辺でいいかしら」
「それで、私に何の用かな? 察しはついているけど」
「……その包帯、取ってみせなさい。拒否するなら、斬るわ」
ヴェラが腰につけた双剣の柄に手をかける。
脅さなくても、もう隠す気などない。正体に気づかれているのに、今さら隠す意味などない。
「……見て楽しいものじゃないよ」
そう言いながらも、私は包帯をゆっくりとと解いた。
現れたのは、醜くひび割れた肌だ。
シュタインの実験でひび割れと修復を繰り返し、最終的にひび割れの状態で帰されたのだ。
当然、飢餓感もある。
考えないようにしているだけだ。
「やっぱり、皮膚病なんかじゃなかったのね」
「うん。嘘をついてごめん」
「ガレス師匠を捕食したのもノアね?」
私は頷いた。
もう、嘘はつかないと決めたのだ。
「……狩人が擬態生物に返り討ちに遭うことは珍しくないわ。それでも聞かせなさい。なぜガレス師匠を食べたの? ひび割れを治すため? それとも、師匠が邪魔だったから?」
どちらも違う。
どう答えたら信じてもらえるだろうか。
いや、正直に話すしかない。
「本当は、食べたくなかったんだ」
「嘘ね。あんたたちは人間を食べないと生きていけない。だから食べたんでしょ?」
「違う……本当に、違うんだ。もう、人間を食べるのはやめようと思ってたんだ」
私は自分の頭を両手で押さえた。
ガレスを食べてしまったときのことは思い出したくない。
「だけど、ガレスは私を殺そうとして……」
「当然ね」
ヴェラが冷たく言い放つ。
「死にたくなくて、必死に抵抗したんだ。ガレスを無力化したかった。でも彼が足を滑らせて……私の爪が首を抉って……それで、彼の血が私の口に……」
「それで、ガレス師匠を殺して食べた、と?」
「本当に嫌だったんだ。耐えようとしたんだ。それまでも衝動を抑えてたんだ。でも、本能が……私を、許してくれなかった……」
声が震え、頬を涙が伝う。
「本能、ね……なんておぞましい」
ヴェラの言葉が私の心に刺さる。
それは、仕方のないことだ。
「私もそう、思うよ……」
「話を変えるわ。あんたはアルヴィスに近づいて何をするつもり? どうせ、あいつのことも食べるつもりなんでしょ?」
私は顔を上げて、首を左右に振った。
「絶対にそんなことしない! 信じられないかもしれないけど……」
ヴェラが眉をひそめる。
「じゃあ、なんであいつといるの?」
「それは……」
彼が好きだから。
それを他人に聞かせるのは、なんだか恥ずかしい気がした。
「こうして、人気のないところに連れてきたのに、あたしを襲わない理由は?」
私が擬態生物だと確信していたヴェラは、ここで私が襲うと考えていたようだ。
「ヴェラが傷ついたら、アルヴィスが悲しむ」
「そんなに簡単にやられないわよ」
「うん。でもガレスのときみたいに事故が起こるかもしれない。アルヴィスが悲しむのは嫌なんだ」
ヴェラは心底、訳が分からないといった顔をする。
「それに、私はもう人を食べない。食べたくないんだ」
「何を言っているの? あんたたちの本能でしょ?」
「食べようとしても、アルヴィスの顔がちらつくんだ。彼のことを考えたら、もう人間なんて食べられない」
彼を騙し続け、裏切り続けている私に言えた義理はないかもしれない。
だが、私の本心だ。
何度も食べてしまっているが。
だから、そんな自分が嫌いだ。
「私からも訊いていいかな?」
「……何よ」
「なんで、私の正体をアルヴィスに黙っていてくれたの?」
ヴェラがスープの作り方を見せてくれたときのことだ。
あのとき、ヴェラはアルヴィスに真実を伝える機会はいくらでもあった。
「大した理由なんてないわよ。あのお人好しはあんたのことを信じてる。それなのに、あんたが擬態生物だと知ったら、あいつは傷つくわ。だから、黙ってただけ。あんたがアルヴィスを捕食しないかだけは賭けだったわ。ま、いつでも加勢に行けるように近くには待機してたけど」
「そう……アルヴィスを傷つけないため……君たち師弟は似てるね。ガレスも同じようなことを言ってたよ」
ガレスは確かこう言っていた。
『貴様を信じているアルヴィスには、真実は伏せておいてやる』
ヴェラの双剣を握る手に力がこもる。
「擬態生物がガレス師匠のことを語るな」
静かに話す声には怒気が含まれている。
感情を理解した私だが、細かい機微まではまだ分からないということか。
「う……ごめん、君を怒らせるつもりじゃなかったんだ」
ヴェラは怒りを鎮めるように、目を閉じて、深く息を吐いた。
その程度で私に対する嫌悪感と怒りが消えるわけではないだろう。
彼女は双剣を抜いて構えた。
「あんたの言いたいことは分かった。でも、信用できない。さっきからあんたは『悲しい』とか『嫌』とかいかにも、人間みたいなことを言ってる。でも、それは私たちを騙すための模倣なんでしょ?」
よく変わる彼女の表情は、今この時は完全に抜け落ちていた。
そうじゃない、と説明したところで彼女には伝わらないだろう。
結局、こうなってしまった。
だが、彼女は私の話を聞いてくれた。
それだけで、私は満足――できるわけない。
最後にアルヴィスに会いたかった。
ちゃんと会って、本当のことを話して、謝りたかった。
ヴェラが踏み込み、私に向かって、双剣を振るう。
ガレスに比べると、どこか頼りない攻撃だ。
今の私でも、避けようと思えば避けられる。
それでも私は動かなかった。
静かに目を閉じ、最期の時を待った。




