真田 伸一
俺は、梨田の家の前に立っている。甲斐誠二は、未だ警察での取り調べが続いているが、梨田はもう釈放されたらしい。梨田と会うのは、新田六花と資料室で対峙したあの日以来になる。あの日から1週間経った。婚約者を失った女とは、どのような会話をしたら良いのか皆目見当もつかない。それが、長年職場で切磋琢磨し合った気心の知れた同期であってもだ。
梨田は、よく俺の好物の牛丼を差しいれてくれたものだが、俺は梨田の好物が分からない。気にかけて貰う事に慣れすぎているのを実感し、恥じ入るしかない。考えた末、喫茶フルール自家製のクッキーを手土産にここに立っている。ユニオンジャックのようなお洒落な模様の缶に、マーブル模様のクッキーが綺麗に整列している。紙袋ががさりと音を立てた。 躊躇った末、インターホンを押そうと手を伸ばした時、玄関の扉が開いた。
「いらっしゃい。窓から伸ちゃんが見えたから……」
この一週間で、随分やつれたな。俺は、黒のレザージャケットの襟を立て、梨田の勧めに従って、家の中に入った。二階まで吹き抜けになっている玄関は、午後の柔らかな日差しに満ちていた。揃えられたクッションの効いたスリッパに、ぎこちなく足を通す。廊下の奥のリビングは、部屋の三方が、庭に面した大きな窓に面していた。中央に、八人は優に座れそうな長いダイニングテーブルがあり、入口から一番遠い席に通された。
「これ、少しだけどお見舞い、な」
「気を遣わせて悪いわね。どうもありがとう。父と母は、誠二さんのお宅に行ってるの。婚約を…正式に破棄しに行ったんだと思うわ。結納も済ませてしまって…父にも母にも迷惑をかけてしまったわ」
梨田は、丸盆に緑茶と和菓子を乗せて戻ってきた。洋菓子を用意したのは失策だったか。返事を濁す為に、茶を啜る。椅子に座ったまま、大きく伸びをした梨田が続ける。
「あーあ。……やっぱり私、あの時」
「今更くだらねぇ事蒸し返すな」
消防署に配属になってすぐの夏。俺は梨田を近くの神社の祭りに誘った事があった。それまでも、職場の愚痴や相談など、何かにつけて居酒屋で話し込む仲ではあった。どちらからともなく会う約束をし、家族のような居心地の良さを感じる事ができた。きっと梨田もそうだったろうと思う。梨田が、ただのさばさばした女でない事は、すぐに分かった。どことなく繊細で、頼りなげな一面がある。その一面を俺にだけ見せてくれている所が嬉しかった。
その祭りの日、俺は梨田に思いを告げた。ちょうど、花火大会が始まって、夜空には大輪の花がいくつも咲いては散った。神社の石段に腰かけて、俺はタイミングを図っていた。花火の最後は、どこの花火大会も大規模な花火を連続して打ち上げる。一瞬、昼間の明るさを取り戻した空を、梨田は眩しそうに眺めていた。
緩く編みこんでアップにした髪には、枝垂れた花のかんざしが揺れていた。薄紫の着物も、その着物に咲く淡い黄色の朝顔も、梨田によく似合っていた。育ちの良さそうな梨田の小さな口がぱくぱくと動く。直後、白い陶器のように滑らかな頬を透明な涙がつーっと伝った。
「どうした?」
「……な、何でもないの。あんまり綺麗でね。」
梨田は、困ったように笑った。梨田は、よく困ったように笑う。俺は、そんな控えめな笑顔が好きで、よく梨田を困らせた。
「梨田、俺と付き合わないか?」
最後の花火が打ちあがって、周囲には闇と静寂が戻ってきた。梨田は、口元に手をあてたまま、涙を零している。
「駄目なの」
「そう……か」
「ごめんなさい。……婚約者がいるの。父の勧めで、この間お見合いをしたの」
こちらとは目を合わさないようにして、明らかに無理して笑顔を作る梨田を見ているのは辛かった。俺が好きな、困ったような笑顔に早く戻って欲しかった。ダムが決壊したように、梨田の涙は次々と毀れおちていく。巾着を握りしめた手に向かってぽたぽたと落ちる。
「とってもね、いい人なの。きっと、きっと好きになれる。お父さんの探してきてくれた人だもん。前にも話した事あったっけ?私のお父さん、南町総合病院のお医者さんでね、そこの…そこの若手の外科医の先生とお見合いしたの。ちょっと神経質そうだけど、きっと、きっと好きになれるの」
もう聞いていたくなかった。梨田の気持ちは痛い程伝わってくる。俺は、ただただ泣きやんで欲しくて、思わず梨田を抱き寄せた。俺の鼻先でかんざしが凛とした音を立てる。梨田は、俺の背中に手を回そうとした後、火傷したかのように離れた。
「駄目だよ伸ちゃん。もう…外で会うのよそう。私、頑張るから。伸ちゃんはずっと私の友達でいてね」
梨田の下駄の赤い鼻緒は、寂しい音を響かせながら遠ざかって行った。あの祭りの日以来、俺は友達という任務を遂行してきた。最近、その外科医との婚約が成ったという事で、やっと気持ちの整理がついてきたというのに、このざまだ。
きっと、父親の病院内の権威を高め固める為の結婚話だったのだろう。事件を隠匿する協力することで、梨田は父の権威を守ろうとした。梨田が、そこまでの覚悟を決めてしたことだ。俺がぶち壊すわけにはいかない。「あの祭りの日に戻ってやり直したい」なんて、絶対に言わせてはならないのだ。
俺は、梨田の私物の入った袋をテーブルに乗せた。梨田は、南町消防署から去る事になった。書類上は自主退職という事になっているが、本当の所は分からない。梨田が荷物の整理に来なくて良いように、私物を届ける役目を仰せつかったのだ。
「伸ちゃん」
「俺たちは、ずっと友達だ。これからもそうだ」
それだけ言うと、俺は席を立った。何か言いたそうな梨田を振り返らないようにずんずんと長い廊下を進んだ。玄関のドアが閉まる寸前、聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。
「頼むから、幸せになってくれ」
俺は、風を切るように走りだした。後ろでドアが大きく開く気配がしたが、脇目も振らずに走り続けた。住宅街の外れの花屋の角を曲がった途端、見覚えのある文字が目に入った。「アルメリア」。ひょろりと背伸びしたようなピンク色の花は、玉状にぽんと纏まっていて、あの日の簪に少し似ていた。
「こんな花だったのか」
黒いカップに植わっているアルメリアを熱心に眺めていると、奥から店員が近づいてきた。店の看板を見ると、南町フラワーショップとある。この花屋、村瀬里穂の働いていた花屋か。
「いらっしゃいませ」
「ちょっと聞きたいんだが、このアルメリアって花は、どこの花屋でも売ってるのか?」
「ええ。割とどこのお花屋さんでも置いてるお花ですけど、この辺りだと、うちが一番数は多いと思います。ここで、花の選定してたスタッフの一番好きな花だったので」
「そうか。ありがとう」
ありふれた花だと言うなら、花の線から手紙の差出人に迫るのは、なかなか難しそうだ。花屋を後にしながら、強く自分の頬を叩いた。しっかりしろ。俺は、あの火事で助けられなかった村瀬猛の想いを辿るのだ。まだ正午を過ぎたばかりだ。俺は、次なる目的地に向けて歩き出した。




