新田 六花
日中の勤務が終わり、これから夜勤に入る。日勤のスタッフは帰り支度を始め、署内は、一時ざわざわする。僕は、日中の火災の報告書を上げる為、資料室にいる。今日の報告書に、寝煙草の注意徹底のマニュアルを添付する必要があるからだ。その原本が、ここ資料室に保管してあるのだ。先程、何気なく窓から下を覗くと、コンビニ帰りらしい真田さんの姿が見えた。こっそり抜け出して夜食を仕入れに行くなら、もっと地味な格好をすればいいのに。オレンジのつなぎのまま出てしまうあたり、大雑把な真田さんらしい。思わずくすりと笑みがこぼれた。
窓際の椅子に腰かけ、分厚いマニュアルファイルを捲る。目当てのマニュアルは、すぐに見つかって、そのまま少し目を閉じる。ここの所、非番の日は捜査活動に明け暮れていたので、正直あまり休めていない。でも、赤ちゃんの世話で消耗している里穂さんには心配をかけられないので、家では常に笑顔を意識している。それもまた、一人暮らしに慣れた僕にとっては一仕事なのだ。
じんわりと、暖房の熱が体の芯まで温めていく。夜勤が始まる前に、少しだけ仮眠を取ろう。少しだけ、少しだけ……。
「うちの署員に、通報者がいるって噂知ってるか?」
ふいに会話が耳に入ってきて目が覚めた。今、何時だろう。僕は、何分眠ってしまったのだろう。暖房のせいか、少し喉がいがらっぽい。
「さあ。聞いた事ないわねぇ。うちの救急隊は、こう言っちゃなんだけど男も女もお喋りが多いから、そんな噂すぐに広まりそうだけど」
「じゃあ、本人が隠してるって事か……何でだ?」
「さあ。周りに色々聞かれたくないからじゃない?だって、その人は立て続けに何回も発見しちゃったんでしょ?それだけでも気分が悪いわ。早く忘れたいのに、わざわざ人に言わないわよ」
「なるほどな」
声の主は、真田さんと救急隊の重鎮である梨田さんだ。さばさばした梨田さんの性格が、真田さんと相性ばっちりで、この二人は結構仲が良い。僕も、この二人が付き合っているのかと思っていた時期もあったが、梨田さんが南町総合病院の外科医と婚約した時に、それが誤解だったと知った。それにしても、二人は誰もいないと思って、資料室で密談をしているようだ。いつ出て行くべきか…早い方が良いけど。もぞもぞしている内にも、二人の話は続く。
「夏に言ってた事、まだ悩んでんの?いいじゃない、新田くんに直接聞けば。どーんとさ」
突然自分の名前が出てきた事で、ますます出て行きにくくなる。
「どーんとって言ってもなぁ。何て聞けば良いやら……なぁ」
「意外と肝っ玉小さいのよね伸ちゃんは」
その時、枕代わりにしていた分厚いファイルが突然雪崩を起こした。バサバサバサッという突然の音に、今までこちらを見向きもしなかった二人の視線が一斉にこちらに注がれる。僕は、決まり悪そうに笑うと、諦めて二人の側に歩み寄ろうとした。
「あの、僕に何か聞きたい事があるんですか?」
真田の顔が、ぎゅっと強張った。
「悪いな。いるって分からなくてな。陰口みたいで、気分悪かっただろ」
「いえ。僕も出そびれてしまったので」
再び黙ってしまった真田の脇腹を、梨田がぐりぐりと突く。
「夏に、児童公園でペンキの塗り替えがあったろ。その日、更衣室で夜勤明けの俺と会ったのを覚えてないか?」
「覚えてます。僕の腕にペンキが付いていたのを教えてくれましたよね」
「ああ。俺、その後公園に行って猫の死骸を発見して、しかも赤いペンキが塗られた遊具が見つからなくてよ、お前の腕を赤く染めてたのが本当にペンキだったのか……なんてくだらねぇ事を考えちまってな。まぁ、俺は通報しないで帰っちまったんだがな」
「それ、僕ですよ」
次の瞬間、真田の拳が僕の頬にめり込んだ。さすが日頃鍛えているだけあって重たいパンチだな真田さん。僕の体は簡単に床に沈んだ。
「おい!何でそんなくだらねぇことした!」
殴るだけでは気が済まず、僕を怒鳴りつける真田さん。馬乗りになろうとするのを、梨田さんがやんわりと止めている。僕は、早くもじんじんしてきた頬を押さえ、立ち上がった。
「違いますよ。……通報したのが、です」
真田さんは、振り上げた拳の下ろし所が無く、固まってもごもご言っている。
「伸ちゃん。早計だったね。ごめんなさいは?」
「……すまん。早とちりしちまったみたいだ。」
完全に梨田さんにハンドリングされている真田さんを見るのは面白い。固まってしまった真田さんに代わって、梨田さんが後を継ぐ。
「それにしても、何でそんなに新田くんの前に動物の死骸が現れたのかしらね。児童公園の事件の通報者って、全部新田くんなんだって?」
「はい。見つけたからには、通報の義務があるかなと思いまして」
「で、結局新田くんの腕が赤いのは何だったの?」
「ペンキですよ。公園の隅にある、ドーム型の遊具の内側が赤いんですよ」
僕が事も無げに繰り返すと、完全に真田さんは灰になってしまったようだ。夏から今まで、動物虐殺の犯人だと疑われていた僕の方が灰になりたい気分だ。その謝罪は後々してもらう事にしよう。真田さんは、携帯電話が着信を告げているのも気付いていないようだ。
「伸ちゃん、電話電話」
真田さんが、のろのろとポケットから携帯電話を引っ張り出すと、粕谷美代の文字が光っている。真田さんが通話ボタンを押すと、こちらにも聞こえる怒鳴り声が耳をつんざく。
「真田さぁぁぁん!!動物の事件の犯人捕まったじゃないですかぁぁぁぁ!!!外科医ですって外科医!!!だから言ったじゃないですか新田さんじゃないってぇぇぇえ!!超超超無駄足ですよあたしのきょう一日!返してくださ」
真田さんは無言で電話を切った。懇願するような目でこちらを見てくる。
「もう一つ聞いても良いか?居酒屋で粕谷美代が、おまえのセーターに動物の毛がついてるのを見つけて、それもおまえを疑う材料の一つになったんだが……」
瀕死の人に鞭打つようで、何とも申し訳ないが、僕の名誉の為に言わせて貰う。
「猫、だと思います。僕の通ってるケーキ屋さんも雑貨屋さんも、猫や犬を飼ってるんですけど、雑貨屋さんの猫だけは、乞われるままに抱っこしてくるんですよ。長毛種なので、よく毛が抜けるんですよ」
完全に論破された真田さんは、膝から崩れ落ちた。夏の時点で聞いてくれていたら、この数カ月、真田さんをもやもやさせる事はなかっただろう。僕のせいではないが、何だか申し訳なくなる。梨田さんが、真田さんを引き連れて資料室を出ようとしたので、呼びとめる。
「ただ、署内で内緒にしていたのには、訳があります」
真田さんは、歩みを止めてこちらを振り返る。
「僕、梨田さんにお聞きしたい事があるんです。僕が三匹の犬の死骸を見付けた時、夜の十時だったんですが、その少し前どこにいましたか?」
梨田さんの動きがぴたりと止まった。
「どうしてそんな事を聞くの?」
「僕、死骸を発見する前、やっぱり資料室にいたんですよ。その時、児童公園で言い争いしてる梨田さんを見てるんです。あれ、旦那さんですか?ひょろっとした男の人を突き飛ばしたりして、しばらくした後、何か大きいボストンバッグみたいな物を地面に投げ捨てた所まで見てました。直後に、火災現場に出動してしまったので、それが何だったかまでは僕見てないんですけど…」
そう。僕が内緒にしていたのは、確信が持てなかったからだ。警察に話しても良かったのだが、梨田さんに確認してから、と思っていたのだ。梨田さんは、最近結婚の準備で変則勤務が多く、なかなか顔を合わせる機会が無かったのだ。自分が犯人だと疑われていたのは心外だが、良い機会だったのかもしれない。真田さんは、呆然と梨田さんを見つめたままだし、梨田さんも黙ったままで、部屋には沈黙が満ちている。
「美代ちゃんによると、外科医が逮捕されたみたいだし、残念だけどそういうことですよね、梨田さん」
その後分かったことだが、梨田さんの夫になるはずだった外科医・甲斐誠二は、逮捕された。殺したのが動物なので、器物損壊罪にあたるようだ。甲斐は、日頃のストレスを小動物に向ける最低の男だったようだ。彼の犯行に気付いた梨田さんは、必死で止めようとしたようだ。甲斐は、あの三匹の犬を最後に動物虐殺はやめることを梨田さんに約束したので、梨田さんは遺棄を手伝った。しかし、甲斐の虐殺が約束を守る事無く、梨田さんは途方に暮れていたようだ。今は、二人とも従順に事情聴取に応じているようだ。南町を騒がせた、連続動物殺傷事件は幕を閉じた。




